じゆうちょう -15ページ目

じゆうちょう

ラクガキです。

斉藤朱夏さんという一人の女性声優さんがいらっしゃいます。

 

底抜けに明るい方で、その満面と呼んで差し支えない笑顔に心を奪われた人は多いのではないでしょうか?

かくいう私もその一人です。

 

ですが、私が斉藤朱夏さんに惹かれた原点は「しゅか通信」にあります。

 

「しゅか通信」とは彼女が2016年の自身の誕生日である8月16日に開設した個人ブログです。

記事が更新される度にアメブロの女性声優部門のデイリーランキングで1位を獲得するほどの勢いのあるブログです。

 

私はその「しゅか通信」に惹かれました。

「しゅか通信」は他のブログと一線を画して個性的です。

実際に話かけてきているような感覚に陥るほど自然な話言葉で構成されており、気分でガラリと記事の雰囲気を変えたりしますし、記事内容とはまったく関係のないお写真を雑に貼って結びとする記事もあります。

その自然すぎる雰囲気に惹かれた点ももちろんあります。

しかし、私の心を揺さぶった根本というのはその「しゅか通信」開設時の記事にあります。

 

はじめまして、斉藤です。

 

 

 

この記事の

 

 

このブログはね、私の中では

皆さんから頂いてるお手紙の

お返事のつもりで更新していきたいと

我ながら勝手に思ってます

 

 

という一文に私の心がどうしようもなく揺さぶられてしまいました。

自由奔放ではしゃいでるような記事の中に垣間見えた彼女ののようなものを感じたのです。律儀だなぁと。

お手紙というのは、私としては「出したいから出している」という感覚に近いですし、本当に感謝の意を伝えたいという場合を除いては、出した時点で既にその役目を終えている、読んでいただければ御の字というような感覚で出していたので、そんな律儀に「お返事」なんて、勿体の無いお言葉ではないですか。

 

 

きっとお返事ではないことも書くけど

むしろ私の自己満な感じになりそうですが

そこは、うん許してください。笑

 

 

そしてその後にこの文が続きます。なんて、律儀で誠実な方なんだと思いました。

この世の中、お手紙は読んでくれたかどうかさえ、不明瞭なことが多いと思います。そんな中、お返事の変わりと銘打っていただき、その上そういうお返事の文脈に添えない場合もあるかもしれないと釈明のようなことまで。

そんな、許すもなにも、それでいいんだよ、自己満でいいんだよ。お手紙も自己満みたいなものなんだよ、となんだか放っておけない気分になりました。

某神の台詞をお借りするならば「その水晶の輝き」が失われないか心配といったところです。

 

この記事から私は斉藤朱夏さんという人間に惹かれていたんだと思います。

 

その後、Aqours1stで魅せた最早憑依的といって良いはしゃぎっぷりに、渡辺曜の姿を重ねた方も多いと思います。

私もLVですがその姿を見て、曜ちゃんにそっくりだし、そういうところがキャスティングされた理由なのだろうか、と思ったりもしました。

 

しかし、その後、衝撃の事実が判明します。

それはその1stでの振る舞いは全て「渡辺曜になりきったつもりで行われていた」ということです。

もちろん、素の自分が出ていた瞬間もあったでしょう。それは後述するBRODYという雑誌でも語られていることです。

ですが、問題はそこではなく、私はあれはすべて「斉藤朱夏としての振る舞い」だと思って見ていた事です。

 

「しゅか通信」やTwitterのテンション具合とも一致したので、自然である、と。でも違ったんです。彼女は「渡辺曜」のつもりだった。演じていたんです、渡辺曜を。演技と呼ぶにはあまりに自然でした。だからこそ私も曜ちゃんに似てるなぁなんて思ったりしたのです。

それは要するにそこまでのレベルでキャラクターの心情に寄り添えているということで、そのポテンシャルに背筋が震える思いがしました。

 

「言葉には行動が伴う」

 

私が間違いないと思う言葉のひとつですが、それを斉藤さんは示してくれました。キャラクターを大切にしているなんて口ならなんとでも言えることであると思います。その愛情は行動で示すしかない、それによって言葉にも深みが出てくるのだと。このレベルはキャラクターの心情を深く理解していないと到達できないレベルのような気がして、この時点で私は演者・斉藤朱夏の魅力に惹かれていた、というかスゴ味に気圧されていた、という方が適切かもしれません。

とにかく、1stを経て私は名実共に彼女から目が離せなくなったわけです。

 

しかし、その思いは徐々に薄らいでいくこととなります。

私は私という人間のことがどうしようもなく嫌いです。なので、時が経ち、冷静になっていくにつれ、自分の感じた想いというものにも懐疑的になっていく傾向があります。

上記した1stで彼女から感じた演者としての力、それは勘違いで、彼女が彼女らしく振舞っていたらそれが渡辺曜っぽくなっただけなのではないか、「渡辺曜であろうとした」という発言もそこまで重たいものではなく、あくまでおべっかの範疇を抜けないんじゃないか、などと考えるようにもなりました。それは彼女の普段の振る舞いがあまりにも奔放で、そういう物事に対して熟慮する精神構造をしていないんじゃないかと思わされたことも原因となっていたと思います。

なので、私の斉藤朱夏さんへの想いみたいなものは低めの天井にぶつかってそのまま、という状態が続きました。

 

しかしその状態は、昨年12月に発売された雑誌、BRODYによって揺れ動きます。

同時期に発売された某雑誌のグラビアが私が求めていない性的路線で辟易していたのもあって、BRODY公式氏がtwitterにアップされる真っ当にかわいめな斉藤さんのお写真を見て、「癒されたい」と思い、カジュアルに購入しました。

先述したとおり、昨年中期ほどの斉藤さんへの想いはさほど強くなく、キツすぎる雑誌ラッシュによって結構見逃してしまいましたし、BRODYは割と久しぶりに斉藤さんのインタビューを読むことになった雑誌でした。

 

私は本当にカジュアルにその雑誌を購入し、ページをめくると海辺で満開笑顔ではしゃぐ斉藤さんらしい斉藤さんが見えて、彼女の笑顔が好きという想いは当初から変わっていないので、買って良かったなぁなんて思いつつページを捲っていきました。すると、本元のインタビューが姿を現しました。カジュアルな気持ちでそのインタビューを読み進めると、おおよそ私の予想とはかけ離れた内容が書かれておりました。

 

 

  • 自分の魅力が分からず、自分が嫌いであるということ。
  • 「生涯を共にするレベルの存在だと思っています。曜ちゃんがいなかったら、私はもういる意味がないので。」という発言

 

 

私は絶句してしまいました。

あの斉藤さんが「自分が嫌い」―あまりしつこく引用しても冗長なのでしませんでしたが、謙遜で用いるにはあまりに生々しく「自分が嫌いである」ということが述べられていました―であるということにとても驚きました。

彼女はそんな陰気な感情とは無縁な人だと思っていたから、私のような人間と同種の思いを抱えていたなんて思わなかったのです。

 

同時にそれには違和感も覚えました。

私から見たら斉藤朱夏という人物はとてつもなく魅力的に映っているからです。

 

同雑誌には「この人を応援するぞって思うってすごいことじゃないですか。それが私だとしたら、なんで私なんだろう、私でいいの?って。『初めてファンレターを書きました』っていう人もいるんです。だったら、初めて書いてよかったなって思われる人間にならないといけないって思って。」という発言もありました。

そういうファンへの心遣いのような感情を持てることもまた彼女の魅力のひとつなのではないかと思います。まっすぐな言葉を届けてくれる点も、満開な笑顔も、常に全力を感じさせるストイックな姿勢も、あと単純に各スキルのレベルの高さも、とても魅力的だと思うのです。

 

しかし、一つの物事に裏表があるように、考え方にも表と裏があります。悪い見方をすると、ファンへの気遣いは「考えすぎ」に映るかもですし、まっすぐな言葉を届けてくれるというのも「愚直で考えなしの発言」という風に見えないこともないです。彼女はそういう裏の視点で自らを省みているのかもしれません。

自分を嫌いになってしまうと自分の行う全ての行動をポジティブに受け取ることができなくなってしまうんですよね、他者からの好評価はお世辞にしか聞こえませんし、インタビューを見る限り彼女もそんな感じなのかなという印象を受けました(あくまで印象です)


あの斉藤さんにこんな感情があったなんて、と、その感情への共感からか、心を大きく揺さぶられました。

 

そして、このインタビューで最も衝撃を受けた部分は「生涯を共にするレベルの存在だと思っています。曜ちゃんがいなかったら、私はもういる意味がないので。」という発言に始まる、彼女の渡辺曜への想いの強さです。こちらも記事として冗長になりがちなのでカットしていますが、つらつらと、本当につらつらと渡辺曜に対する強い思いが語られています。およそおべっかではありえないような表現でしたし、贔屓目抜きにして本当の想いなんだろうなと感じました。

 

 

 

曜ちゃんがいなかったら、私はもういる意味がない

個人の斉藤朱夏として応援してくれる人は......3人ぐらいかなとか。

 

 

 

その発言に演者としての確固たる心構えを感じて尊敬の念を抱かずにはいられなかったというのもありますが、それ以上にやるせない感情に襲われました。

 

どうか、どうかそんなこと言わないで欲しい

 

私はもういる意味がない、なんてそんなことは決して無い、どんなに薄汚れた醜いオタクの自分でもそれだけは言えます。なぜなら私ははじめ、渡辺曜役を抜きにした斉藤さんに惹かれたから、「しゅか通信」に惹かれたからです。確かに斉藤さんのお名前を知る契機は渡辺曜ちゃんでした、それはほぼほぼ誰しもそうなんじゃないかと思います。でもそれはそれで、そこから斉藤さん個人の魅力に惹かれた方は何人もいると思います。私もその1人ですし、私から見える範囲でも3人以上は既に存在しています。だから、そんな悲しいこと言わないで欲しい、そう思いました。

 

そんな輝きに満ちた斉藤朱夏さんの弱みというか、影の部分を知れて、私はもうどうしようもなく彼女が気になってしょうがなくなりました。

熟慮する精神構造をしていないんじゃないか、というあらぬ誤解も解けました。寧ろ考えに考え抜いているのだろうという印象を受けました。そんな考えに考える彼女の息抜きの場所として「しゅか通信」があるんじゃないか、とかそういう風にも思えました。

 

私のような弱い人間は、度々信用を感じられる出来事がないと、その応援している人への想いに懐疑的になってしまいます。それはその人に非があるわけではなく、私の自分嫌い故に自分の感じた想いも信じきることができないからです。

このBRODYはそんな弱い人間にとっての聖典足り得る雑誌だと思いました。言葉にして信用を示してくれている。信用を事実として確認できる。

繰り返しますが、私は弱い人間です。これからも道に惑うことがあるかもしれません。しかしどんな時でもこのBRODYを読めば、原点に立ち返れる、そんな気がするのです。こういう道標があれば、私はその人を安心して応援することができるのです。

 

そして、そのインタビューを見て、私のように「しゅか通信」から惹かれたヤツだっているんだよということを伝えたくなりました。

それはお手紙でもいいのかもしれません、しかし、冒頭に述べたように、言葉には行動が伴うのです。行動が伴わない言葉は受け取り手によってはどこまでも陳腐に映ります。

斉藤さんはこちらからみれば超人気声優で、プレゼントボックスなんていつも一人はみ出ている、そんな人です。

こういう言葉や物でも愛情表現のようなものは多大に受けてこられたでしょう、そういうことがあっても尚、先のような不安を口にしているわけです。

 

そんな彼女の心の雪を融かすことができるとするならば、それは行動だけなんだと思います。我々が行動で示す。その上で言葉を届けることができれば、彼女ももう「いる意味がない」なんて言わないと思うのです。あなたがいることはこれだけの「意味」を生んでいるんだ、ということが伝わればきっと。

 

ならば、その行動とは何か?我々オタクが示せる行動なんてただひとつ、現場に通うことです。

ソロイベントに通うことで、斉藤朱夏さんのファンの母数を示すことが出来るのではないかと思うのです。

しかし、それまで斉藤さんのソロイベントはありませんでした。だからこそ彼女は上記のような不安を露にしているのだと思います。

 

そんな中1/10に行われた「沼津警察署 一日警察署長イベント」はそのひとつの指標を示せる重大なイベントだったのではないかと思います。

といってもその重大さに気付いたのは沼津の帰りの電車内で信用できるタイプのオタクさんとお話してからなのですが。

 

そのイベントが何故それほど重大だといえるのかというと、それは彼女のソロイベントだからです。

斉藤朱夏という一人の人間に惹かれたヤツらだけがそこに集まるからです。

結果として幣イベントは、「ラブライブ!サンシャイン!!」のお膝元であり、彼女自身も「渡辺曜」としてあの場に立っているつもりだったらしいということは後から分かりました。

 

しかし、あのイベントの概要は沼津警察のHPにサイレントで貼られていたpdfファイルを見る限り、「ラブライブ!サンシャイン!!声優」と銘打たれているけれども、私は完全に「斉藤朱夏」のソロイベントであるという印象を受けましたし、そういう心持ちで沼津に来た人は少なくないのではないかなと思います。

 

なので、あの場に集まった中でも「渡辺曜としての斉藤朱夏」を見にきたオタクはいたかもしれませんが、それと同じくらい斉藤朱夏を見にきたオタクもいたんじゃないかと思ってます。あの場には1000人超集まったと聞いています。本人としては「ラブライブ!サンシャイン!!」のイベントで、そういう目的で集った人しかいないと思っているかもしれませんが、そうじゃない、少なく見積もっても何百人かは素の斉藤朱夏さん目当てだと思うよ、と伝えたい。伝わっていたらいいなと思う今日この頃です。

 

ばーっと想いだけで書いてきましたが、きっとことはそう単純ではないのだろうなとも思います。

今、斉藤さんのソロイベントに人が集ったところで、それは渡辺曜役の延長なのだろうという印象が本人にとっては抜けないかもしれません。

その印象が拭われない限り、我々の想いが真の意味で彼女に届くことはないのかもしれない。実際に、渡辺曜役の延長で来る人はそれなりにいると思いますし、その印象を完全に払拭することは容易ではないだろうと思います。

 

しかし、「3人ぐらいかな」という印象を拭うことならできる気がするのです。こちらからしたらどれだけ少なく見積もっても100人は絶対にいるので、それが伝われば、少しは前向きな気持ちを抱いてくれるような気がするのです。

 

そういう思いを抱いてもらえる日が来るよう、真摯に応援していくしかないのかなと思います。

ということで、長々となりましたが、このあたりで締めさせていただきます。

斉藤朱夏さんに真なる「心の平穏」が訪れることを祈っております。ありがとうございました。

 



※このブログは基本的に身内間の日記感覚で書いており、人に見られることを意識しておりませんので逐一注釈を挟まないできましたが、上記のキモい文章は全て私の主観であり、斉藤朱夏さんの気持ちを分かった気になって語っているということは毛頭ないとご理解いただきたく思います。加えて、渡辺曜役としての斉藤朱夏さんを快く思っていないということも全くありません。寧ろ逆なので誤解なされませぬようお願いいたします。蛇足となりましたが、これにて失礼いたします。