こんばんは。
ご訪問いただき、ありがとうございます。
このシリーズ、だいぶ間が空いてしまった上に、
順番も前後しますが、
「奇跡のコース 心理療法」
第二章 心理療法
から、
7 クライアントとセラピストの理想的な関係
の要約をお届けします。
なお、タイトルは、原文ではクライアントではなくペイシェント(患者)です。
「キリスト」「創造主」などの言葉は、キリスト意識、聖なるもの等、ご自分の好みのものに読みかえていただいてよいと思います。
セラピストとヒーラーは、同じものを指しています。
・・・・・
で、
読んでいて思ったのですが、
真のセラピー
って、気がついていなかったけれど、
まさに、
レトリーバル(浄霊)と同じ
ではないですか!
要するに、
まず、
セラピスト / レトリーバルする人が、
↓
患者 / レトリーバルされる人とつながる
↓
そして、できることをして、
相手に気づきを促したり、相手の振動を上げたりする
↓
ホーリースピリットに任せる、または高次元の存在に引き渡す
・・・・・
このような姿勢は、考えてみると、他の援助職、教授職、また医師などの医療職の人すべてに当てはまることかもしれません。
あるいは「親」という仕事にも…
自分としてできるだけのことをしたら、結果は相手と天に委ねる…
・・・・・
前置き、長くなりましたが、
ココから…
※ は訳註(?)
では、誰がセラピストで、誰が患者なのでしょうか。最終的には、誰もがその両方です。癒しを必要としている者は、癒さなければなりません。医者よ、汝自身を癒やしなさい。※ セラピストを訪れる患者の一人ひとりが、セラピストに自分自身を癒す機会を差し出しているのです。だから、患者は、セラピストのセラピストなのです。
※ 医者よ… : ルカによる福音書にある言葉。
セラピーとは祈りであり、癒しは、その目標であるとともに、結果でもあります。祈りとは、キリストが中に入ってこられるような関係の中で、心がつながり合うこと以外の何でしょうか。ひとたびキリストが中に入ってきたら、彼にとどまってもらうほか、選択の余地はありません。癒しはここにあります。幸福と平安もここにあります。
この関係の中で起こるプロセスは、実際は、セラピストが心の中で患者に、患者の罪はすべて、セラピストの罪とともに赦されたと告げるプロセスです。自らの無罪性を知っているキリストだけが赦します。キリストのヴィジョンが知覚を癒し、病いは消えます。一度その原因が取り去られたなら、再び戻ってくることはありません。しかし、これには非常に進歩したセラピストの手助けが必要です。そうしたセラピストは神聖な関係の中で患者とつながることができ、その中では、分離の感覚は克服されます。
このためには、一つのことが必要です。それは、セラピストが、自分を神と混同しないことです。すべての「癒されていなヒーラー」は、何らかの形で、この混同を来たしています。その地点に達するまでのセラピストは、セラピーのプロセスは自分に任されていると考え、その結果に責任があると思っていました。だから、患者の間違いはセラピストの責任となり、罪悪感が暗く大きな覆いになって、キリストの聖性であるものを隠していました。決断するにあたって自分の判断を用いる者たちは、罪悪感を免れません。自分を通してホーリースピリットに語ってもらう者たちにおいては、罪悪感はあり得ません。
罪悪感をなくすことがセラピーの真の目標であり、癒しの当然の目標で者あります。
進歩したセラピストは、自分の中にある力を疑うことはできません。そのセラピストの中には創造主の愛があり、創造主は失敗することがありません。
※ 「私、失敗しないので」by 創造主 (^_^)
癒されていないヒーラーは、自分の患者たちを恐れずにはいられません。そのヒーラーは、呼びかけている者の中のキリストを見ません。その異邦人を、真理にとっては異質で、叡智に乏しい者、また神を持たないので神を与えられなければならない者と見ています。その異邦人の中に、あなたの神を見なさい。
備考 : 患者(ペイシェント)とクライアント
という言葉について
日本では「患者」は医師に対応する言葉であるのと、心理療法 / カウンセリングの受け手は、アメリカでも、ロジャース以降、クライアントと呼ぶのが普通のようではありますが、
ペイシェント / 患者という言葉には、病をかかえているという意味あいが含まれていて、クライアント / 依頼人という言葉にはそれがうすい印象です。
なので、本文では「患者」のままにしました。
レトリーバルについてはコチラ