テクニカル・エクスタシー/ブラック・サバス
「スノウブラインド」という楽曲があるように、古くからブラック・サバスの活動には白い粉との関係を伺わせる要素が幾つもあった。実際、70年代のブラック・サバスのメンバーはドラッグやアルコールでハイな状態になっている事が多かったようだ。これはメンバーのインタビューでも明かされている。
ブラック・サバスの初期5作品は、どれも名作である。ハイな状態が良い方向に作用したと表現するのは社会通念上の問題があるし、アルバムが素晴らしいのはメンバーの才能あってこそだが、やはりその背景にはドラックと密接な関係があったのは間違いない。たが良好な状態は長続きせず、「血まみれの安息日」(1973年)制作時には、精神的にも肉体的にも、メンバーの人間関係もバランスが崩れ始めていた。
収録されている楽曲の素晴らしさもあって、一般的に「血まみれの安息日」は名作として認識されている。つまり当時はバランスの崩れが表面化せず、飽くまでバンド内部の問題として収まっていたという事に。それが徐々に前作「サボタージュ」(1975年)辺りから作品にも影響を及ぼすようになった。
トニー・アイオミ(g)が「完全にどうかしてた。飛行機でドラッグの空輸を行った」「頭の中が真っ白になって、曲のアイディアが全く出て来なくなった」と70年代後半を回想したインタビューがある。それは前作「サボタージュ」や、本作「テクニカル・エクスタシー」(1976年)の時代を指していると解釈できる。
本作もトニーを筆頭に、オジー・オズボーン(Vo)、ギーザー・バトラー(b)、ビル・ワード(ds)というデビュー時からのメンバーで制作されている。とは言ってもバンド内部の人間関係には亀裂が生じており、もはやデビュー時とはバンド内部の質が大きく変わっていた。混迷の中で、何とか作り上げたのが本作と次作「ネヴァー・セイ・ダイ」(1978年)である。
ブラック・サバスの歴史の中でも、70年代後半はどうしてもネガティヴな話題が多いのは事実である。それでもアルバムを実際に聴いてみると、当時としては新しい試み、実験的な要素も含む本作は、決して切り捨てられるような存在のアルバムでは無いと気付く。
本作のジャケットは、有名なヒプノシスが手掛けている。一体何を描いたデザインなのだろうと思うが、よく見るとエスカレーターですれ違う2台のロボットが描かれたもの。このロボットが互いに繋がっている事が判り、タイトル「テクニカル・エクスタシー」を踏まえたデザインと解釈できる。
ブラック・サバスらしい重厚なギター・リフの「バック・ストリート・キッズ」で本作は始まる。伝統的なサウンドを披露しているように思えて、随所にキーボードの音が取り入れられ、これが良いアクセントに。鍵盤奏者として参加しているのは、ジェラルド・ウッドラフ。ジェラルドは前作「サボタージュ」及び、同作発表後のツアーにも鍵盤奏者として参加しており、バンドとは深い付き合いになっていたミュージシャンだ。
「ユー・ウォント・チェンジ・ミー」も、バックの演奏を聴くとキーボードの音色やコード弾きが全面的に入っており、初期の楽曲とは違った、この時期のブラック・サバスの音作りになっていると気付く。特筆すべきは3曲目の「イッツ・オーライ」。ゆったりとした曲調自体も珍しいが、ヴォーカルを担当しているのがビルなのだ。
ギター・リフがヘヴィさを出し、キーボードの音がプログレ色を醸し出す「ジプシーの誘惑」、タメを効かせたビートに、トニーのブルージーなギター・プレイが乗る「ムーヴィング・パーツ」、重さの中にもロックン・ロール的な軽快さが宿る「ロックン・ロール・ドクター」とアルバムは進行して行く。
本作で注目すべきは「シーズ・ゴーン」だ。細部に至るまで徹底的に美しく仕上げたバラード・ナンバーで、壮大なストリングスの演奏も入っている。アコースティック・ギターの煌びやかなアルペジオをバックにオジーが歌い、そこからスケール感の大きな曲へと展開して行く。ブラック・サバスの一般的なイメージで言えば、このような楽曲の存在に驚く方もいるはず。ラストを飾る「きたない女」は、この邦題からして衝撃的。前半はミドル・テンポで重さを出しながら進行し、中盤でプログレ的なリズムの展開が設けられているのが特徴に。
本作「テクニカル・エクスタシー」は、バンドのディスコグラフィーの中でも影の薄いアルバムであるのは否めない。全体的に楽曲もサウンドも、どこか軽さを感じるのだ。しかし、その軽さは何かと考えて行くと、部分によってはギターと同等に重要な役割を果たすキーボードの音作りが、そう感じさせるのではないかと思う。
前作以上に鍵盤のアレンジが多彩になった本作は、ある意味、新境地に踏み込んだブラック・サバスのサウンドと言える。初期のようにヘヴィなギターが前に出た楽曲が少ないため、イメージと違うと言うリスナーが居られるのは事実であるし、ドラッグ絡みのネガティヴな話題も本作の評価に繋がっているのかも知れない。それでも、サウンドを拡散させて実験的な要素を取り入れたアルバムという点で再評価できる作品ではなかろうか。