新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
(占龍館は、明日2日より営業開始致します。)
今日は、産土(うぶすな)の神様(よく氏神さんと言われますが)に初詣に出かけた後、
一休みしてから少し遠出して、とある神社へ初詣に行きました。(毎年ですが)
そこは格段に霊気のよいパワースポットで、いつもながら本当に気持ち良かったです。
古代では、星辰信仰であり磐座(いわくら)信仰でもあったようで、また、天女伝説が伝わっています。
現代では、天ノ御中主大神がお祀りされているところです。
毎年ながら、本殿に手を合わせると何か感動が湧き起って来て、涙が出そうになります。
私の魂と、深いご縁のある神社なんだと感じます。
今年も感謝の意を述べた後、1つだけお祈りして来ました。
たった1つの、人生でもっとも大切だと思うこと。とてもシンプルなこと。
いつも、それだけをお祈りしています。
2012年も世界の中で色々なことが起こるでしょうが、全ては良くなるためのプロセスと観じ、
唯々、自らがあるべき心境、あるべき行いをもって、日々を充実させていきたいと思います。
謹賀新年。
今年も、108の煩悩を祓うべく、除夜の鐘が鳴り響く時間帯がやって来ました。
さて、108の煩悩っていうのは、たくさんの煩悩ってことらしいですが、
やっぱり数には意味があって、100+8という形で「8」がはみ出しているということは、
煩悩の代表は8つに分類できるんじゃないかと思いますね。
奇しくもキリスト教に言われる「7つの大罪」は、元々は「8つの枢要罪」だったそうですし。
西洋と東洋の伝統を貫く「数」というものの神秘ですね♪
因みに「8つの枢要罪」というのは以下です。
「暴食」「色欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」
さて、罪=罰、という等式が人類の無意識に根付いていますが、
それはちょっと正確ではないなあと思います。
これらの8つの煩悩は、結局のところ全て、「欠乏感」という真実の誤認から生まれるんですよね。
だから「欲」という字は、「谷」に「欠ける」と書きます。
そしてその「欠乏」という思い込みを現実化してしまう。
その現実を見て、さらに「欠乏感」を膨らませ・・・「欠乏感 ⇔ 欠乏の実現」
という運命の悪循環にハマる。
罰というよりは、欠乏感や無意識の罪悪感などで、
自ら厳しい現実を創り出してしまっているという考えです。
残酷な罰を与えるなんて、本当の神様じゃないよ~~
なので、これらが幻想であることを看破し、“今という奇跡” に焦点を当て、
自ずから生まれる“感謝の大海”に身を浸し、本来の満たされた状態に戻っていくべく、
108の鐘に耳を澄ませたいものです。
まさに魂の夜を除いて光に還る・・・「除夜の鐘」ですね♪
ボーーーーーーーーン・・・ヽ(^-^)ノ
さて、初詣に行きますか・・・♪
さて、108の煩悩っていうのは、たくさんの煩悩ってことらしいですが、
やっぱり数には意味があって、100+8という形で「8」がはみ出しているということは、
煩悩の代表は8つに分類できるんじゃないかと思いますね。
奇しくもキリスト教に言われる「7つの大罪」は、元々は「8つの枢要罪」だったそうですし。
西洋と東洋の伝統を貫く「数」というものの神秘ですね♪
因みに「8つの枢要罪」というのは以下です。
「暴食」「色欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」
さて、罪=罰、という等式が人類の無意識に根付いていますが、
それはちょっと正確ではないなあと思います。
これらの8つの煩悩は、結局のところ全て、「欠乏感」という真実の誤認から生まれるんですよね。
だから「欲」という字は、「谷」に「欠ける」と書きます。
そしてその「欠乏」という思い込みを現実化してしまう。
その現実を見て、さらに「欠乏感」を膨らませ・・・「欠乏感 ⇔ 欠乏の実現」
という運命の悪循環にハマる。
罰というよりは、欠乏感や無意識の罪悪感などで、
自ら厳しい現実を創り出してしまっているという考えです。
残酷な罰を与えるなんて、本当の神様じゃないよ~~
なので、これらが幻想であることを看破し、“今という奇跡” に焦点を当て、
自ずから生まれる“感謝の大海”に身を浸し、本来の満たされた状態に戻っていくべく、
108の鐘に耳を澄ませたいものです。
まさに魂の夜を除いて光に還る・・・「除夜の鐘」ですね♪
ボーーーーーーーーン・・・ヽ(^-^)ノ
さて、初詣に行きますか・・・♪
占龍館は、本日が今年の最終営業日になります。
本年も大変お世話になりました。
今後とも、来談者の方々にとって、
より有益な 占い&カウンセリング となるよう精進して参ります。
来年度もどうぞ宜しくお願い致します。
ヒマラヤに住んでいた、とある婦人の発言 その2
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神に願う時は積極的な言葉を使うことです。只、完全な状態だけを望むことです。
それから自分の魂に種子となる完全な想いだけを植えつけるのです。
さて、完全な健康が現れてくるように求めるのであって、病が癒されることを望んではならない。
調和を現し豊富の実現を求めるのであって、
不調和、不幸、制約から救われることを求めるのではないのです。
こんなものは丁度、古くなった着物を棄てるように棄て去ってしまうのです。
それは古くて、もう着られなくなったものです。あなたには喜んでそれを棄てる余裕はあるのです。
それを振り返って見ることさえしてはならない。それは赦され、忘れ去られたのである。
本来の土に還ったのです。もはや物ではない(no-thing)、無になったのです。
【「ヒマラヤ聖者の生活探求 第2巻」(霞ヶ関書房/ベアード・T・スポールディング著/ 仲里誠桔訳) より】
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希望実現する場合には、今の状態を変えようとする想念を発するのではなく、
すでに実現された、完成された状態を思い描くということですね。
なぜなら、思い描いている映像そのものが実現に向かうからです。
「病を癒す」というとき、病をイメージしたままですから、病の継続が実現してしまいます。
病などそもそも無い、「完全な健康体」をイメージし、ただそれに喜び、感謝するという映像と感情。
そしたら、それが実現に向かうというわけです。
そんなこと言ったって現実の体は不調じゃないか、と思うわけですが、
それはもう、過去の想念が現実化して、終わっていく姿というわけですね。
過去の想念という種子が芽を出し、病という花を咲かせた。
そしたらそれはもう枯れて、土に還っていくわけですから、
次に咲かせたい「完全な健康体」という花の種子を「今」植えることが大切なわけです。
なので、「現実」という消えていく姿に、現在の想念がとらわれてはいけない。
“現在の想念”が次に実現する花の種子というわけですね。
「希望実現について その3」へ続く
≪リンク≫
希望実現について その1
最近はやはり、呼吸と感謝で“つながっている”“広がっている”状態が最高に幸せです。
以前より格段に“つながり”やすくなってきた♪
このままでいたら、どうなるんだろうね?
それも楽しみです(*^o^*)
まあ、大まかには予想してますが・・・この世界は鏡なんでね♪
具体的なことは放置(笑) その方が面白いので(*^o^*)
以前より格段に“つながり”やすくなってきた♪
このままでいたら、どうなるんだろうね?
それも楽しみです(*^o^*)
まあ、大まかには予想してますが・・・この世界は鏡なんでね♪
具体的なことは放置(笑) その方が面白いので(*^o^*)