法的根拠とは直接関係のない、「倫理的感性」のことを“モラル”と言う。
この“モラル”が法的根拠に触れるほど低い人物は、社会的な安全を脅かすため、
社会から隔離され、監視下に置かれる必要がある。
その最低水準を越えている場合、そこから先は基本的には個人の問題となる。
が、個人の問題と言っても、人間関係あっての“モラル”であるから、
その個人が属する集団が共有する“モラル”の「水準」または「性格」を満たさなければ、
その個人はやはり、その集団の中から排斥される傾向に陥るだろう。
そしてそこから先の“モラル”が、いよいよ個人的なものとなる。
集団の中にあって、この個々人の“モラル”の「水準」と「性格」の差異が、
人間関係の葛藤を引き起こす要因の1つとなっている。
この場合、集団で共有する“モラル”から、大きく突出した個人的モラルを持ち込むことは難しい。
「性格」が合わなければ理解されず、「水準」が低ければ問題視され、「水準」が高ければ窮屈に思われる。
これらを、集団モラルの許容範囲内に収めることができなければ、その集団に適応できない。
そして誰もが多かれ少なかれ、個人的モラルの表現を、集団的モラルに合わせて抑制しているものだ。
(ちなみに、その集団のリーダーのモラルは、集団モラルに非常に大きな影響を及ぼす)
さて、この集団モラルからも独立した個人的なモラルは、いよいよ純個人的な“モラル”と言える。
ここから先はもう、個人の美意識の問題ですね。純粋な倫理でもあり、芸術でもあると思います。
ここで私が主張したいのは、この純個人的“モラル”の向上には、人生の「本質的な価値」があるということです。
この“モラル”を向上させる程、心は清浄になり、人生の満足度や幸福感が大きくなっていきます。
なので、ここから先の“モラル”を追究する上で、最終的に葛藤が増えたり心境が悪くなったりすれば、
それはモラル向上の方向性を誤っているということ。
清浄な幸福感が深まれば、方向性は合っているということだと思います。
ちなみにこの“モラル”が本当に向上すると、運命学的にも非常に有利になって来ます。
というより、運命を本質的な意味で向上させるには、最終的にそれしかないでしょうね。
ただし、このレベルまで来ると“モラル”というのは、もう理屈では説明し難くなってるでしょうね。
「倫理的感性」さえも越えて、「倫理的直観」のレベルになっていると思います。
対人関係だけでなく対宇宙との関係も深く関わって来るので、
いわゆる「道」とか「愛」とかの水準になって来ます。
善悪さえも越えるので、もはや倫理とは呼べないとも言えますね。
善悪にこだわるからこそ争いが絶えず、実は善悪へのこだわりそのものが「悪」というレベルもあるので。
こう考えていくと、もはや何が何だか理屈では分からなくなってくるわけですが(笑)、
“モラル”云々の根幹にあるのは、やはり“心の波動”だということです。
“心の波動”を向上させる上で、ある段階までは“モラル”が必要だけど、
そこから先は“モラル”さえも越えていく必要がある。
超越的モラルとも言えるでしょうか。
要は“心の波動”を基準にすれば、モラルを踏まえてモラルを越え、道を誤らないはずだということです。
“モラル”向上の真の目的は、“心の波動”の向上にあるということです。