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とある占い師のノート

恋愛、結婚、家庭、人間関係、仕事、経済、社会、健康、心理、霊性 ・・・ 日々ご相談を受けさせていただく中で考えたことを綴るノート。それと日記。


法的根拠とは直接関係のない、「倫理的感性」のことを“モラル”と言う。


この“モラル”が法的根拠に触れるほど低い人物は、社会的な安全を脅かすため、

社会から隔離され、監視下に置かれる必要がある。


その最低水準を越えている場合、そこから先は基本的には個人の問題となる。


が、個人の問題と言っても、人間関係あっての“モラル”であるから、

その個人が属する集団が共有する“モラル”の「水準」または「性格」を満たさなければ、

その個人はやはり、その集団の中から排斥される傾向に陥るだろう。


そしてそこから先の“モラル”が、いよいよ個人的なものとなる。

集団の中にあって、この個々人の“モラル”の「水準」と「性格」の差異が、

人間関係の葛藤を引き起こす要因の1つとなっている。


この場合、集団で共有する“モラル”から、大きく突出した個人的モラルを持ち込むことは難しい。

「性格」が合わなければ理解されず、「水準」が低ければ問題視され、「水準」が高ければ窮屈に思われる。

これらを、集団モラルの許容範囲内に収めることができなければ、その集団に適応できない。

そして誰もが多かれ少なかれ、個人的モラルの表現を、集団的モラルに合わせて抑制しているものだ。

(ちなみに、その集団のリーダーのモラルは、集団モラルに非常に大きな影響を及ぼす)


さて、この集団モラルからも独立した個人的なモラルは、いよいよ純個人的な“モラル”と言える。


ここから先はもう、個人の美意識の問題ですね。純粋な倫理でもあり、芸術でもあると思います。

ここで私が主張したいのは、この純個人的“モラル”の向上には、人生の「本質的な価値」があるということです。

この“モラル”を向上させる程、心は清浄になり、人生の満足度や幸福感が大きくなっていきます。

なので、ここから先の“モラル”を追究する上で、最終的に葛藤が増えたり心境が悪くなったりすれば、

それはモラル向上の方向性を誤っているということ。

清浄な幸福感が深まれば、方向性は合っているということだと思います。


ちなみにこの“モラル”が本当に向上すると、運命学的にも非常に有利になって来ます。

というより、運命を本質的な意味で向上させるには、最終的にそれしかないでしょうね。

ただし、このレベルまで来ると“モラル”というのは、もう理屈では説明し難くなってるでしょうね。

「倫理的感性」さえも越えて、「倫理的直観」のレベルになっていると思います。

対人関係だけでなく対宇宙との関係も深く関わって来るので、

いわゆる「道」とか「愛」とかの水準になって来ます。

善悪さえも越えるので、もはや倫理とは呼べないとも言えますね。

善悪にこだわるからこそ争いが絶えず、実は善悪へのこだわりそのものが「悪」というレベルもあるので。


こう考えていくと、もはや何が何だか理屈では分からなくなってくるわけですが(笑)、

“モラル”云々の根幹にあるのは、やはり“心の波動”だということです。

“心の波動”を向上させる上で、ある段階までは“モラル”が必要だけど、

そこから先は“モラル”さえも越えていく必要がある。

超越的モラルとも言えるでしょうか。


要は“心の波動”を基準にすれば、モラルを踏まえてモラルを越え、道を誤らないはずだということです。

“モラル”向上の真の目的は、“心の波動”の向上にあるということです。



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世間でいうところの「成功者」になるかならないかは、どうでもよいことです。


大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、

自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶることなく、

本当の自分自身に忠実であること、“良心”の命令に素直に従えることです。


それさえできれば、世間があなたをどう見ようと、

自分は自分として最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。


そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、

死後に待ちうける生活への備えが十分にできているという自信をもって、

平然として死を迎えることができます。


【 シルバー・バーチの霊訓(十二) 潮文社刊 より 】

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真実を明快に語った名文ですね。



競争など実在しない(笑)

世間共通の信念によって、そういう風に見えるだけ。

あるのは、自らの在り方と宇宙のみ。


真実はただ、神の愛の下で、

自らの波動の映画を体験しているのみだ。

見たい映画を見ればいい(笑)



Repentance by Imee Ooi(イミー・ウーイ)

イヤホンでの視聴をオススメします♪





“ Repentance ”は、「悔い改め」とか「懺悔(ざんげ)」という意味。


悔い改める」というと、何か自分を厳しく責める感じがするけど、本当はそうじゃない

自分の未熟さというか「痛いところ」を見つめるので、最初はちょっと辛いけど、

素直に至らなさを認めると、がとても軽やかに、自由になる

いつの間にかできていた「こだわり」から解放され、安らぎが訪れる


そんな“解放感”と“安らぎ”見事に表現された名曲です♪♪



ヒマラヤに住んでいた、とある婦人の発言 その3

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ここで忘れてはならぬことは、神という言葉種子であるということです。それはひとりで伸びて行くものです。

何時、何処で、如何にして、などという計らいは、全部神に任せることです。


求めた瞬間には、もうそれが成就されていると知った以上、

あなたのすることは、只欲する事物を言って祝福を与えるだけです。


成就するためのアレコレの細かいことは、神のお仕事なのです。いいですか、神が為し給うのですよ。

あなたはあなたで自分の役割を忠実に果たし神の役割は神御自身に任したらよいのです。


求めよ。肯定せよ。欲するものを神に求めよ。しかして神の成就し給うものを受けよ


神の豊かさという想い常に心の中に持ちつづけなさい。

その他の想いはたとえどのようなものであっても、それが心の中に浮んだら、

ただ神の豊かさの思いで置き換え、その豊かさを祝福するのです。

必要によっては、み業の成就を絶えず感謝しつづけなさい。

またと願いを繰り返す愚を演じてはならない。


【「ヒマラヤ聖者の生活探求 第2巻」(霞ヶ関書房/ベアード・T・スポールディング著/ 仲里誠桔訳) より】

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種子自ずから芽を出し、成長し、花を咲かせますよね。

私たちが芽を出させ、花を咲かさせるわけではない。そんなことはできない。

ただ生命がその力を存分に発揮できるように、ベストな環境を整えることができるだけですね。


希望実現もそれと同じで、希望という種子が自ずから花咲くのを待つのみなんですね。

実現をただ信頼し、祝福と感謝のエネルギーを注ぎ必要な行動をする・・・

というのが、希望の種子より良く育つ環境を整えるということではないでしょうか。


この自然の生命というのが、やはり人間の理知を越えた“神”の役割なんだということでしょう。


いつ、どこで、どのように、という具体的なことは、一応願いとして出すのは良いと思いますが、

絶対にこの時・この場所で・こんな風に!」と決めつけない方がいいでしょうね。

そんな風に決めつけると、結局は不安やら不満やらが湧いてきませんか?

それがいわゆる“神の領域”に割り込む不自然な思考をしている証拠です。


希望の種子を、いつ、どのように開花させるのがベストか天が知っているというわけです。

は、個人の思惑より圧倒的に大きく、かつ細やかな配慮開花させ給うからです。

または、個人だけでなく全ての生命にとっての最善の計画をもって、物事を成就させ給うからです。


そういうことを信頼し、感謝している心境がベストな待ち方なんじゃないかな?


また、「実現しない不安」などが湧いたら、それを“神の豊かさ”という想いに置き換えると言ってますね。

これも天が与えんとする無限の豊かさ信頼し、それに感謝することで、

負の波動を出すのを避けるということだと思います。

負の波動・・・つまりは「欠乏の波動」を出すと、それが新たな願いとなって届くことになるので・・・

こう考えていくと「天は常に、皆の希望を配慮しつつ最善を為し給う」ということを知り、

感謝し続けるのが、良い心境、良い波動をキープするベストな手段なんだと思います。

ということは、結局はそれが人間の本性に適った思考なんでしょうね。


「希望実現について その4」へ続く


≪リンク≫

希望実現について その1

希望実現について その2