ヒマラヤに住んでいた、とある婦人の発言 その3
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ここで忘れてはならぬことは、神という言葉が種子であるということです。それはひとりで伸びて行くものです。
何時、何処で、如何にして、などという計らいは、全部神に任せることです。
求めた瞬間には、もうそれが成就されていると知った以上、
あなたのすることは、只欲する事物を言って祝福を与えるだけです。
成就するためのアレコレの細かいことは、神のお仕事なのです。いいですか、神が為し給うのですよ。
あなたはあなたで自分の役割を忠実に果たし、神の役割は神御自身に任したらよいのです。
求めよ。肯定せよ。欲するものを神に求めよ。しかして神の成就し給うものを受けよ。
神の豊かさという想いを常に心の中に持ちつづけなさい。
その他の想いはたとえどのようなものであっても、それが心の中に浮んだら、
ただ神の豊かさの思いで置き換え、その豊かさを祝福するのです。
必要によっては、み業の成就を絶えず感謝しつづけなさい。
またと願いを繰り返す愚を演じてはならない。
【「ヒマラヤ聖者の生活探求 第2巻」(霞ヶ関書房/ベアード・T・スポールディング著/ 仲里誠桔訳) より】
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種子は自ずから芽を出し、成長し、花を咲かせますよね。
私たちが芽を出させ、花を咲かさせるわけではない。そんなことはできない。
ただ生命がその力を存分に発揮できるように、ベストな環境を整えることができるだけですね。
希望実現もそれと同じで、希望という種子が自ずから花咲くのを待つのみなんですね。
実現をただ信頼し、祝福と感謝のエネルギーを注ぎ、必要な行動をする・・・
というのが、希望の種子がより良く育つ環境を整えるということではないでしょうか。
この自然の生命というのが、やはり人間の理知を越えた“神”の役割なんだということでしょう。
いつ、どこで、どのように、という具体的なことは、一応願いとして出すのは良いと思いますが、
「絶対にこの時・この場所で・こんな風に!」と決めつけない方がいいでしょうね。
そんな風に決めつけると、結局は不安やら不満やらが湧いてきませんか?
それがいわゆる“神の領域”に割り込む不自然な思考をしている証拠です。
希望の種子を、いつ、どのように開花させるのがベストかは天が知っているというわけです。
天は、個人の思惑より圧倒的に大きく、かつ細やかな配慮で開花させ給うからです。
また天は、個人だけでなく全ての生命にとっての最善の計画をもって、物事を成就させ給うからです。
そういうことを信頼し、感謝している心境がベストな待ち方なんじゃないかな?
また、「実現しない不安」などが湧いたら、それを“神の豊かさ”という想いに置き換えると言ってますね。
これも天が与えんとする無限の豊かさを信頼し、それに感謝することで、
負の波動を出すのを避けるということだと思います。
負の波動・・・つまりは「欠乏の波動」を出すと、それが新たな願いとなって届くことになるので・・・
こう考えていくと「天は常に、皆の希望を配慮しつつ最善を為し給う」ということを知り、
感謝し続けるのが、良い心境、良い波動をキープするベストな手段なんだと思います。
ということは、結局はそれが人間の本性に適った思考なんでしょうね。
「希望実現について その4」へ続く
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