ヒマラヤに住んでいた、とある婦人の発言
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「その法則というのは、『汝の悟れる程度に、汝の祈りは叶えられたり』であり、
『又、汝、何を望むとも、そを祈るに、既に受けたりと知れ、然らばそを得ん』である。
もしわたしたちが何なりとも求めたものは、すでにわたしたちのものとなっていると積極的に知るならば、
わたしたちは法則に従っていると知るがよい。
もしも望みが満たされれば、法則が満たされたのであると知るがよい。
もし満たされなければ、求めた側に誤りがあったと悟らなければならないのである。
謬(あやま)ちはわれわれにあるのであって、神にあるのではないと知るべきです。
従って結論は、『汝、心をつくし、魂をつくし、力をつくして、主なる汝の神を愛すべし』となる。
故に、心配、不安、不信を以てではなく、自分の必要なものはすでに自分のものとなっていると知り、
歓び、晴れ晴れとした感謝の心を以て、己自らの魂深く沈潜することです。」
【「ヒマラヤ聖者の生活探求 第2巻」(霞ヶ関書房/ベアード・T・スポールディング著/ 仲里誠桔訳) より】
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思考が実現がする、とよく言われますが、経験上、
思考というよりは“心の波動”が実現するのだと思います。
ここでは、それは「法則」だと言われています。
ただし、自分が真に理解している程度に実現するとありますね。
「求めたものは、すでに実現している」という認識が、理解の状態だそうです。
結果として実現したことは、自分が法則に適った求め方をしたのであり、
実現しなかった場合は、自分が法則に適わない求め方をしたということになります。
よくある失敗は、「それが自分のものになる」とは思えていないのに、
「絶対に実現するぞ!」などと力んでいる場合です。
「望みが実現しない」と思っているから力むんですね。
だから、実現しません。
本当に実現を信じていることは、力まないものです。
むしろ「当然そうなるんだから」と忘れてしまうくらいですね。
まさに「もう実現している」くらいの確信的感覚です。
なので「明日仕事に行く」などの日常的なことは、日々当然のように実現しているわけです。
しかしこれが、何やらマイナスに思いつめて「仕事行けるかなぁ・・・」などと不安を増長させていくと、
偶然アクシデントが起きたりして、日々できていることさえできなくなってしまうかも知れません。
結局「仕事に行けない」という自分の心が実現するわけです。
このように私たちは、日々「法則」の中で信念を実現していると言えます。
なので新たに希望を実現する場合は、
希望を持ったら「当然そうなる」「すでに実現した」くらいの当たり前な感覚になることが必要です。
しかし「法則」を理解していないと、「実現しないんじゃないか」などの不安が湧いてくる。
何事も自分が実現するわけではなく、ここでいうところの“神”の愛の下で実現されるわけです。
自分はただ、実現するための手続きとしての行動ができるだけ。「自分の行動」と「実現」は別物です。
なので“心境”として、
「自分の必要なものはすでに自分のものとなっていると知り、
歓び、晴れ晴れとした感謝の心を以て、己自らの魂深く沈潜する」
という状態が必要なわけです。
いわゆる“アガペー(神の愛)”を完全に信頼している状態ですね。
あらゆる善きこと、美しきことは全て実現されており、これからも実現されるということを。
「希望実現について その2」へ続く