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とある占い師のノート

恋愛、結婚、家庭、人間関係、仕事、経済、社会、健康、心理、霊性 ・・・ 日々ご相談を受けさせていただく中で考えたことを綴るノート。それと日記。


杯の1(左:マルセイユタロット、右:ウェイト版タロット)↓

とある占い師のノート-cups01w


さて前回までは、タロットに描かれた“聖杯”の要点「限りなく生命の水が溢れる器、杯」ということであり、

それを思わせるアイテムが、キリスト教以前の世界各地の神話の中に存在する、という話でした。

世界各地の神話に類似アイテムが存在するということは、

「人類共通の記憶の奥底」にそれが存在するということです。


では一体、何の記憶なのでしょうか?

そういうアイテム(以下“聖杯”と呼びます)が、

遥か古代には現実に存在したのか? 

人類共通の単なる願望なのか?

あるいは、何かの「象徴」なのか?


それは分かりません。


ただ“聖杯”が、タロットの中の重要アイテムとして描かれているということは、

タロット探求者としては、それを「象徴」として受け止めるべきでしょう。

何故ならタロットは、「古代からの“霊的伝統”を象徴で伝えるツール」だからです。

(実は「占い」が第一目的ではなかったのです)


そして「霊的伝統を伝える」ということは、「歴史では伝えられないこと」を伝え

また「宇宙と人間についての真理」や「人間の内的な可能性」を伝えるものでもあります。


なので私は、この“聖杯”という象徴の意味を、あくまでも「真理」の一端として、

また何より「内的な体験」として探求したいと思っています。

それが私の“聖杯探求”の姿勢です。


映画や物語のように、外の世界に聖杯を求めて奪い合い、

武器を手にチャンチャンバラバラやるのではなく(笑)、

(アレも憧れますけどねっ(*^▽^*))

ただ万人の“内なる聖杯”を自ら体験すべく探求する・・・



どちらも“浪漫”には違いありませんっヽ(*>ω<)人(>ω<*)ノ



さて、次回はようやく結論です。取り敢えず、

これまでの「内的体験」「研究」から思っているところを述べてみます♪



「聖杯探求 その4」へ続く



たま~に行う瞑想の1つ。

万人に勧められるものではありませんが、

自分の中の「偽善性」や「虚偽」を一掃する勇気のある方にオススメ。

いつの間にかできていた「偽の自尊心」が傷ついている時などはチャンスです。


※ 最後は明るい話ではありますが、読んでいてしんどくなる方は、読むのを止めて下さい_(._.)_


それは意識の中で、徹底して「自分の価値」だと思うものを否定し、手放していくというもの。

そこに何の永続性があるのか?それが無くなったときの自分はどうなのか?

冷徹なまでに、「価値」だと信じるものを捨てていく。


一切の「理想」「幻想」「錯覚」「嘘」を許さない。

永遠でないものや淡い希望は、全て捨て去る。


・・・当然、気分は落ちて行きます。

しかしこれで自分の無意識の「嘘」を一掃できます。

決して、暗い感情に陶酔するために行うのではなく、

無意識の奥底にある「幻想」と「負の感情」を全部外に出して捨てるために行う。

暗い感情は、しっかり感じつつも流していく。


自分がどんどん無価値に思えてきます。

でも、偽物の自己価値感なら全部捨てた方が良いのです。


全部捨てた先に残ったものがあったら、それこそは“真実”だから!

単なる自虐ではなく(笑)、あくまでも“真実”を求めればこその内省です。


そして今回の瞑想で残ったもの・・・それは“希望の光”でした。

掘り下げた末に、そこに行き着いた瞬間、たちまち生命力が溢れかえりました。


この“希望”には、何の根拠もありません。

根拠がないからこそ“真実”です。


それは虚無の中から、永遠に湧き続ける“生命の泉”です。

どんな目にあっても、何度殺されても、例え宇宙が消滅しても消えることがありません。

一旦水が枯れたように思えても、よく見ればやはり湧き続けている。


これがいわゆる、万人の内にある“神性”というものの1つの現われですね。

今回は、“希望”として認識されましたが、毎回どんな認識になるかは分かりません。

最初からこうだろう、と思っているのは偽物なんで。


あらゆる負の感情や虚偽、幻想が吐き出された、その最後に残ったのが「希望」。

これはギリシア神話の「パンドラの箱」そのものですね♪



カップの1(ウェイト版タロット)↓

とある占い師のノート-ace of cups


前回の記事「聖杯探求 その1」では、“聖杯”の要点は「イエス・キリスト」ではなく、

「生命の水が限りなく溢れる器」であること、という話でした。


とは言え、タロットとイエス・キリストは切っても切れない関係にあります。

例えば、上図ウェイト版タロットのカードには、カップの上に、

「白い鳩」が降りて来ている様子が描かれていますが、

これは「ヨハネによるイエスの洗礼」を思わせますね。


以下は、その場面をレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた作品です。

とある占い師のノート-baptism


ヨハネがイエスの頭から水を流して洗礼している上に「白い鳩」が降りてきていますね。

この「白い鳩」は、キリスト教のいう“聖霊”の象徴とされています。

水を流す器といい、降りてきている鳩といい、まさにウェイト版の“カップの1”の絵です。

タロットの絵では、鳩が「聖餅(せいへい)」と呼ばれるパンをくわえていますが、

聖餅(キリスト教の儀式で使われる)↓
とある占い師のノート-聖餅

キリスト教では、このパンは「イエスの肉体」の象徴なので、尚更「イエスの洗礼」を思わせます。


このタロットを制作した「アーサー・E・ウェイト」は、イエスのこの場面を意識したに違いありません。

しかし、それはあくまでもウェイト版タロットの話。

ウェイトは「マルセイユタロット」を研究して、タロットを制作したので、

“カップの1”を探求するなら、むしろ「マルセイユタロット」を探求すべきですね。


カップの1(マルセイユタロット)↓

$とある占い師のノート-m_ace of cups


この絵には、「白い鳩」もなければ「聖餅」もない

イエスを直接連想させる象徴は描かれていません。

ただ、カップの絵が非常に精巧にできており、

そこに「数」と「四大元素」による暗号が、

精緻に織り成されているであろうことが分かるばかりです。


ウェイトは、タロットの原典である「マルセイユタロット」を作り変える際に、

キリスト教的な要素も多分に取り入れたものと思われます。


さてしかし、私がタロットを探求する上で最も大切にするのは、

「人類共通の記憶の奥底」を感じ取ることです。


そういう観点から探求するならば、この“カップの1”という象徴の共通点は、

あくまでも「生命の水が限りなく溢れる杯、器」であるということです。

そして、そのようなアイテムが世界各地の神話に登場するのです。

それはイエス・キリスト以前の古代から存在する象徴であり、

人類の記憶の奥底に潜む“何か”なのです。



「聖杯探求 その3」へ続く





タロットには、カップの1というカードがある。

杯の1(ウェイト版タロット)↓

とある占い師のノート-ace of cups


“生命の水”が限りなく溢れ出す“聖杯”の絵が書いてある。何となく、

その水を飲めば“永遠の生命”が得られる」とか「限りなく食べ物や水、生命力が得られる神器

といった、どっかで聞いたような物語が思い浮かぶ。


それで「聖杯」をキーワードに色々調べて見ると、現代では「アーサー王の聖杯伝説」など、

「最後の晩餐でイエスが用いた杯」

「磔にされ、ロンギヌスの槍で突かれたイエス・キリストの血を受けた杯」


というようにキリスト教の文脈で語られることが多いようだ。

どうも、タロットから自然に浮かぶイメージとは異なっている。


それでさらに調べると、ケルト神話や、ギリシア・インドなどの世界各地の神話の中に、

「水や生命力が無限に溢れる器や杯」といったアイテムが共通して存在することが分かった。

やはり、キリスト教以前から既に、神話的に存在し続けていたのである。


「聖杯」の要点は、決して「イエス・キリスト」ではない。

あくまでも、「生命の水が限りなく溢れる器」という点なのだ。



「聖杯探求 その2」へ続く