※ 後半を大きく書き換えました。
他人と比較して生まれる“誇り”は「偽の自尊心」ですが、
自分が体験し成し遂げた、と“誇り”に思うのも「偽の自尊心」です。
どちらにも共通するのは「記憶」としての自分を“誇り”に思っているということ。
勿論、それが良いとか悪いの問題ではなく、それはそれで、そういう感情を楽しめばいいと思います。
“気の流れ”の特徴としては、そういう人の額から鼻にかけて「気の塊」が生まれているように見えます。
私自身も“誇り”を味わっているとき、その辺りに「気の塊」を感じます。
これは、気が滞っているんですね(笑)
“一なる者”との「つながり」を失っている状態だと、
そういう「記憶としての自分」に価値付けをしないと虚無に陥るのです。
「やってられない」のです(笑)
でも、それは結局は「偽の自尊心」なので、
自分より価値が高い人と比較されたり、成し遂げられないことに遭遇すると「ヘコむ」わけです(笑)
まあ、そしたらそれで「また乗り越えてやる」と頑張って、
より強く価値付けされた「記憶としての自分」を作るわけですが、決して終わりはありません。
どこまで行っても相対的なものですし、肉体が衰えたり損傷したりして、
価値を丸ごと失わされる場合もあります。
とにかくこういうのは全部、“一なる者”との「つながり」を失っている状態で生まれるドラマです。
その全てが、現れては消えゆく雲のような“自尊心”のドラマ。
根本的な“欠落感情”から生まれるドラマ。
「真の自己」は、決して流れて消える雲ではなく、その背後に大きく広がる“青空”のようなものです。
元々は“青空”だけだったのが、ちょっと遊んでみようと思って、千々に舞う雲々を生み出した。
しかし遊びに夢中になる内に、千々の雲々がそれぞれを本当の自分だと思い込んでしまった。
この時に「死」という概念が生まれたわけです。
これは大変・・・だって、消えてしまったら存在そのものが無くなってしまうんですから。
それで何とか自分を拡大して・・・しかし拡大し過ぎて灰色の雨雲のようになってしまう。
どんなに拡大したって雲は雲です。いつかは消える。
それよりは、自分が無限に広がる“青空”であることを思い出した方が安らぎます。
どこまで行っても仮相に過ぎない価値のためにジタバタしないで済む。
そして、雲は雲として、また余裕をもって遊べるわけです。
“青空”であることを想い出した状態も自尊心で、そこには大きな広がりと安堵があります。
「自分は価値がある、否、価値がない」と満ち引きする自尊心ではなく、根本から安らいだ自尊心。
雨雲のようになっていた自尊心から解放された時には、
晴れ上がった空に虹がかかったような喜びや、
もっと深ければ、光の海に溶け去るような感謝も生まれます。
この時に何かとても本質的なもの・・・“一なる者”とつながっているのです。
“完全なる真・善・美のイデア”を受け容れるか、否か。
人生の主体が、“完全なるイデア”をどれほど感知・認識し、受容するか?
人生の根本問題は最終的に「そこ」に行き着く。
“それ”を認識し、受容したとき、本人に最初に訪れるのは“無条件の幸い”である。
現実と呼ばれるものがどんな状態であれ、まず“幸い”に包まれることになる。
“幸い”に、本来条件というものは存在しない。
なぜなら“完全なるイデア”こそが「幸いの第一原因」であるから。
人が外の世界に求めることは全て「条件付きの幸い」であり、“イデア”の代替物に過ぎない。
しかし“完全なるイデア”は、いわゆる現実に完全に現れることはないが、現実を永遠に彫刻し続ける。
そのため“完全なるイデア”を受容した分だけ、現実的な運命に少しずつ、
あるいは急激に「本来の」変化が起こっていく。
誰にでも「運命の苦痛な繰り返し」がなかなか変わらないという部分があるものだが、
それはその部分に、“完全なるイデア”を受容することを拒む自分がいる、ということである。
“完全なるイデア”は、無条件に好きなだけ生命力を注いでくれるのであるから、
遠慮なく受け取ればいいのだが、罪悪感や怖れなど何かしら過去の体験から来る思い込みによって、
頑ななまでに“愛”を受け容れるのを拒むのである(笑)
このような“我が子”を見つめる“親の心”はどのようなものであろうか?(笑)
・・・そういうことであるから、そのような自分の影を見つけたら、
“完全なるイデア”を受容した自分が包んであげるとよい(笑)
何よりもまず“完全なるイデア”を感知・認識し、受容することが先決だ。
“幸いの第一原因”に立ち返り、“無条件の幸い”に包まれることだ。
杯の1(左:マルセイユタロット、右:ウェイト版タロット)↓

“聖杯”からは、限りなく“生命の水”が溢れている。
その水は、大海のように全宇宙を満たしている。
宇宙の至るところ、“生命の水”が浸透していない場所はない。
というより、宇宙の全生命は、その“聖杯より湧き出た大海”によって生み育てられ、発展している。
勿論、水や大海というのは「象徴」で、
人間にはそれは“満ち満ちる生命力や光、大愛”として体験される。
星辰の運行や大自然の営み・・・森羅万象の大調和の内に、
この“純粋なる大愛”を見出すことができる。
風に揺れる木々のざわめきの内に、小鳥のさえずりの内に、雨上がりの柔らかな日差しの内に、
天空を気ままに流れる雲の内に、人の暖かな心遣いの内に、あらゆる生命体の神秘の内に、
美しい建築と庭園の内に、整備された道の内に、文明の利器の利便さの内に・・・
世界のあらゆる善きこと美しきことは、“生命の大海”の直接の顕現である。
そして“聖杯”は「これら万物を幸いの内に、大調和の内に生み育む」という、
全方位に発せられた“原初の意図”であり、あるいはまた、その意図が発せられた“神の御胸”である。
そうであれば“聖杯”は、生命の大海の「中心」に存在する、ということになるが、
そもそもが「無限」である大海の中に「中心」を見出すことはできない。
しかしまた、あらゆる場所に「中心」たる“聖杯”が存在するとも言える。
物質宇宙を生み出したビッグバンの始点に、天の川銀河の中心に、
天空の中心たる“北極星”に、母なる地球(ガイア)の中心に、
あらゆる原子の中心に、そして “私たちの胸の内” に。
「聖杯探求 その5」へ続く
星(左:マルセイユタロット、右:ウェイト版タロット)↓

聖杯とそこから溢れる生命の水は、女神と関連して象徴されることが多い。
これについては、また別の機会に♪
クジラとの遭遇って、何だか神秘的・・・
クジラの波動・・・感じてみて下さい♪
恋人関係や夫婦関係は、結局のところ「ただ共にいる」ということができればいい。
しかし、それができるためには、まず「自己と共にいる」ということができないと無理。
「ただ存在する」ということができないと無理。
一人で居て不安と不満たらたらの状態だったら、パートナーに対しても不安と不満たらたらになる。
そしてもめる。一緒にいることが苦痛になってくる。
「ただ存在し、何をするでもなく満たされている」というのは、人間の「基本的な精神状態」なんですが、
歴史の中で随分と昔に忘れ去られてしまったので、その状態を体験するのが難しいものとされています。
というか、そういう発想そのものが消えていることが多いようです。
まあ、そのことを語り、教えてくれる人はたくさんいるのですが、今一つ現代文化に馴染んでいない。
禅とか瞑想とか色々あるんだけど、何か宗教的で神秘的で特殊で・・・
必要以上に難しいことにされてしまった。
天は、人の幸せにそんなに難しい条件を求めることはありません。
「ただ存在し満たされている」というのは「人間の基本的な精神状態」なので、
何かもっと普通のこととして認識されるようになるといいな。
そうなったら、世界の諸問題は根本から解決に向かうと思います。
しかし、それができるためには、まず「自己と共にいる」ということができないと無理。
「ただ存在する」ということができないと無理。
一人で居て不安と不満たらたらの状態だったら、パートナーに対しても不安と不満たらたらになる。
そしてもめる。一緒にいることが苦痛になってくる。
「ただ存在し、何をするでもなく満たされている」というのは、人間の「基本的な精神状態」なんですが、
歴史の中で随分と昔に忘れ去られてしまったので、その状態を体験するのが難しいものとされています。
というか、そういう発想そのものが消えていることが多いようです。
まあ、そのことを語り、教えてくれる人はたくさんいるのですが、今一つ現代文化に馴染んでいない。
禅とか瞑想とか色々あるんだけど、何か宗教的で神秘的で特殊で・・・
必要以上に難しいことにされてしまった。
天は、人の幸せにそんなに難しい条件を求めることはありません。
「ただ存在し満たされている」というのは「人間の基本的な精神状態」なので、
何かもっと普通のこととして認識されるようになるといいな。
そうなったら、世界の諸問題は根本から解決に向かうと思います。