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とある占い師のノート

恋愛、結婚、家庭、人間関係、仕事、経済、社会、健康、心理、霊性 ・・・ 日々ご相談を受けさせていただく中で考えたことを綴るノート。それと日記。


みんな、日々、色々な物事を受け取って生きている。

空気、水、食べ物、太陽の光、景観、人々の労働や気遣い、文明の利器・・・


けど、物質的には受け取っていても、その本質である“恩恵”は受け取っていないことが多いかも知れない。

肉体的には受け取っていても、“心”では受け取っていないことが多いかも知れない。

とても勿体ないことだし、“心”で受け取ることをしない生活が続くと、“心”が渇いてしまうよ


どうしたら“心”でも受け取り、自分という存在を満たすことができるか?


その方法が 「ありがとう」 ということ


この時、物質的に受け取ると同時に、その背後にある“限りない生命”と“恩恵”も受け取っている。

さらに深く受け取るには、しばらく手を合わせて瞑目し、

感謝の心境になると同時に流れてくる“恩恵”をたっぷりと味わう・・・ 至福です。



ありがとう。



以前の記事「感謝の真実」




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「愛はいつも近くにいるよ。たとえ、だれかがすぐ近くにいなくてもね」

アミは言った。


それはとても美しい言葉に聞こえた。たぶん、あるていどほんとうだと思う。

でもぼくにとって、ビンカと遠くはなれていながら幸せを感じるのは、半分不可能なことだった。

それは彼女も同じだと言った。


「きみたちはひとりぼっちでいると、人生の魔法や、

その一瞬いっしゅんにこめられたすばらしさに対して心を閉ざしてしまうんだよ。

こうして、人生を楽しむことを見失ってしまうんだ。

ちょうど、"彼か彼女が自分のそばにいなければ、幸せになりたくない"と言っているようなものだよ。

よろこびのかわりに悲しみを選ぶなんて、おろかだと思わない?」


ビンカは別の見方をした。

「悲しみを選ぶわけじゃないわ、ただ、愛している人がそばにいないとそれはひとりでにやってくるのよ」

「愛している人がそばにいないと、悲しみが"ひとりでにくる"ように、きみたちが選ぶんだよ」

とアミは笑って、


「でも、中にはひとりだろうとふたりだろうと、いつもよろこびのほうを選ぶひとだっている。

こういうひとはたしかに賢者だよ。だれにも、なににも、たよることなく幸せになれるんだからね。

どんな中毒にもなっていない」


「中毒?」

「そう、だって、なにかに、あるいはだれかに依存しすぎるっていうのは、それがたとえ双子の魂でも、

お母さんでも、子どもでも、おばさんでも、ネコでも、好きな虫でもなんでもよくないことだよ。

だって、それは人々を奴隷化して、魂の自由をうばってしまうことになるからね。

でも、魂の自由なしには、ほんとうの幸せなんてありえないからね」

「じゃ、愛は中毒なの?」

とぼくはひどく混乱して聞いた。

「もし、幸せになるのがほかのひとしだいだとしたら、そうだよね」


「でも、それが愛というものよ? アミ」

そうビンカが言った。でもアミは同意しなかった。

「それは執着だよ。依存だし、中毒だよ。ほんとうの愛はあたえるものだよ。

愛するひとの幸福に、幸せを感じられることだ。いつも自分のそばにいることを強要したり、

ひとりじめしたりすることでなくてね」


【「アミ 3度めの約束」エンリケ・バリオス著/石原彰二訳 】

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“無条件の愛”は、いつも近くにある。

恋人や家族はもちろん、空気より、もっと近くに。


ひっきりなしの思考にほんの少し穴を開けて、それが流れ入るのを受け容れれば。


“感謝”は「それを受け容れます」という宣言だよ♪

それか、愛する人の幸せを心から祈っても、それは入ってくるよ♪



瞑想というと「無念無想になる」というイメージがある。

実際、「無」になる瞑想というのはある。


ただ、よく勘違いされているのだが、

「無」になるのは「手段」であって、決して「目的」ではないということ。


無想になれば、自ずから“世界の実相”が認識されてくる。

あるいは自己“一なる生命・光”帰還、溶解されていく。


しかし「無」の観念にこだわれば、それが自ずから起こるのさえ拒否し、「無」に留まることになる。

それでは、ただ心が“暗黙”(光の沈黙ではなく)を深めていくだけだ。


“一なる生命”完全に切り離された人というのは存在しない

つまり、心が迷妄にはまりこんでいても、“つながり”は全然残っている

だから、その“つながり”を認識するには、心がある程度静まれば十分なのだ。

「無」を目指すのではなく、“つながり”に気づくことや、“全一への帰還”を目指すのである。


そして、“つながり”を深め、あるいは“全一”が現われ、心の波動が上昇・拡大すれば、

自ずから「無」になってくる。その“安らぎ”の内に、自ずから種々の想念が起こらなくなってくる。


必要以上に「無」を強調する人がいるが、

先哲「無」の先の“実相”を想起し、既に開示してくれているのだから、

その後を歩む私たちは、直接“実相”に向かう方が良いのだ。




末期がん3ヶ月の余命宣告を受けて後、14年を楽しく経過\(^▽^)/


末期がんの “奇跡的な消滅”


その秘訣は、この方の「人生やがんに対する姿勢や心境」にあると思います。

がんだけでなく、「人生のあらゆる問題を解消する秘訣」全く同じだと思います。


是非、「闘病記」をお読みください。

また、この方の「がん」を、今「自分が抱えている問題」に置き換えて読んでみてください。



がんを明るく生きる~末期がんからの生還

http://www.asahi-net.or.jp/~is9c-yngw/




過去のいくつもの人生で、今と全く同じ生活をしていた感覚があります。


ただ「紙とペン」「パソコンとキーパンチ」に変わり、

鳥の歌声や海の波などの「自然音」「オーディオ機器での音楽」に変わり、

積み上げられた「資料」「製本」に変わり、暖炉エアコンに変わり・・・


たまに訪れる人の話を聴いてアドバイスしたり、知識を伝えたりしていたのが、

現代の相談業講師業に変わり・・・

瞑想したり運動したり、時々楽器を演奏したりしていたのも今と同じ


物質的に豊かな時もあれば貧しい時もあったけど、そもそもそっちに関心がないのも同じ(笑)

ただ、この生活を快適に続ける環境だけは絶対にゲットしてたし、その機会に恵まれたのも同じ


ずっと同じやん・・・・・・


物質的な変化は色々あるけど、やっている事柄や体験のパターン昔から変わらない

そう思うと、本質的な “魂の次元”に「時間は無い」 のだな、と実感します。


ただ “永遠の今” の中で、「魂に刻印されたプログラム」が動き続けている


それは、言わば“神”に与えられたプログラムなので、この“魂”自身

そのような生活をするのが自然であり、喜びや快適さを感じるようにできています。


しかし・・・この人生で動くのは、どうもこのプログラムだけではないらしい。

この年始の誕生日「生年月日と本物の出生時刻が出て来た!」のも、それを意味している。

どうも過去には、違うプログラムで動いた人生がいくつかあったらしく、

そのプログラムは、今はまだ起動していないということだ。

まあ、占術家なんで大まかな予想はつきますが、予想を越える部分も多々ありそうで楽しみです。


が、今は今のテーマを、その時々に完結させるのみ。

どのプログラムが動こうが、意識が焦点を当てるべきは“唯一つ”です。