以前、どなたかのSNSで紹介のあった「学問からの手紙」(2019.3 宮野 公樹著)を何となく惹かれたので読んでみた。“入門ガクモン”という副題があるので学生向けに書かれた本だと思う。私は、学問の世界にはいないし、学生でもないおじさんだが、それなりに刺激を受けた。
『学問とは「問い学ぶ」でなく、「問いに学ぶ」であり、問いに学ぶとは「自分を知ること」であり、正しくは「自分という存在を知ること」である。』
であれば、ドラッガーが説いた「マネジメント」然り、「論語」然り、「哲学」然り、とどのつまり“自分を知る”ことに行きつくじゃないか。自分を知ることとは、人生の肝であって、かつ困難で、人々の目指すところなんだ。
さらに、『自分という存在について考えたら、逆に自分は無くなり、この宇宙大にまで思考がめぐり、究極の自由を手にして力強く生きていけるようになる。』と宮野さんは展開していく。
まあ著書にはあーだ、こーだ説得力を持って書いていんだけど、書き写すと、ところどころ論が飛躍する感じも見えてくる。
そこで、「自分を知る」⇒「自分が無くなる」の飛躍を自分なりに埋めてみると、こうなった。自分の体は、どこから来たのか? それは親から(自ら頼んだわけでもないのに)。自分の知識や知恵はどこから来たのか? それは他の誰かから真似て得た(≒学んだ)。 他に、自分の意識についてはどうなのか? ちょいと、これは私には難しい。
そんなことで、自分という存在は、過去もしくは他から受け継いだ存在で、かつ未来もしくは他に受けつ渡す存在でもあるので、まあ媒体(メディア)のようなものといえる。自分が媒体だと思えれば、自分のオリジナルやアイデンティティなるものに拘ることができなくなり、自分が溶けていく。それで、自分が無くなる。
自分は媒体であるという発想を持つと、ちょっと自由になれる感じがあるけど、どうでしょう?