以前、どなたかのSNSで紹介のあった「学問からの手紙」(2019.3 宮野 公樹著)を何となく惹かれたので読んでみた。“入門ガクモン”という副題があるので学生向けに書かれた本だと思う。私は、学問の世界にはいないし、学生でもないおじさんだが、それなりに刺激を受けた。

『学問とは「問い学ぶ」でなく、「問いに学ぶ」であり、問いに学ぶとは「自分を知ること」であり、正しくは「自分という存在を知ること」である。』

であれば、ドラッガーが説いた「マネジメント」然り、「論語」然り、「哲学」然り、とどのつまり“自分を知る”ことに行きつくじゃないか。自分を知ることとは、人生の肝であって、かつ困難で、人々の目指すところなんだ。

さらに、『自分という存在について考えたら、逆に自分は無くなり、この宇宙大にまで思考がめぐり、究極の自由を手にして力強く生きていけるようになる。』と宮野さんは展開していく。

まあ著書にはあーだ、こーだ説得力を持って書いていんだけど、書き写すと、ところどころ論が飛躍する感じも見えてくる。

そこで、「自分を知る」⇒「自分が無くなる」の飛躍を自分なりに埋めてみると、こうなった。自分の体は、どこから来たのか? それは親から(自ら頼んだわけでもないのに)。自分の知識や知恵はどこから来たのか? それは他の誰かから真似て得た(≒学んだ)。 他に、自分の意識についてはどうなのか? ちょいと、これは私には難しい。

そんなことで、自分という存在は、過去もしくは他から受け継いだ存在で、かつ未来もしくは他に受けつ渡す存在でもあるので、まあ媒体(メディア)のようなものといえる。自分が媒体だと思えれば、自分のオリジナルやアイデンティティなるものに拘ることができなくなり、自分が溶けていく。それで、自分が無くなる。

自分は媒体であるという発想を持つと、ちょっと自由になれる感じがあるけど、どうでしょう?

91歳になった映画監督の羽仁進さんは「毎日が楽しくてしょうがない」「違うところを感心するってことがなきゃ、人生なんてつまんないじゃないですか」と言う。昨日23時からのETV特集「映画監督 羽仁進の世界」より。

初期の作品であるドキュメンタリー映画「教室の子供たち」では、子供たちがカメラを意識しなくなるまで溶け込み、子供たちが素になる瞬間を捉えた作品で、世にインパクトを与えた。

その後、少年院のドキュメンタリーを撮る企画が、撮影許可が出ないことから、やむを得ず劇映画に移行した。これがきっかけでしばらくフィクションにも取り組む。

つくられた作品に我慢ができなくなった羽仁監督は、アフリカに出向き野生動物のドキュメンタリーに没頭するようになる。リアリティを追求した結果、人間ではなく野生動物に行きつく。

「誰かや社会のために」と意識する前の被写体に拘った。子供の遊びや野生動物には、「○○のために」がない。そこにこそリアリティがあるのだと。

「○○のために」がない計らいのない世界と、「○○のために」がある計らいのある世界。そして計らいを超えた世界もある。とすると、自分の世界はどこにある?

1日を振り返り毎日1回の発信をする「FB考現学」を始めて、約50日が経つ。(考現学については、4/16の私のつぶやきを参照)

50日前の地点より、今自分の立っている位置が随分移動しているように思える。進歩とか後退ではなく旅のような移動だ。

この50日を表現すると、こんな感じ。バーチャルなSNS上に自分の凧を上げ、毎日まじめに凧のしっぽを付け替えていく。毎回いろんな風を受けて、凧の糸を握っているリアルな私自身が、SNSの風に吹かれてあっちに少しずつ、こっちに少しずつ移動していく。振り返れば50日前とは、かなり違った景色のところにいる。そんな旅の感覚がある。

凧に吹き付ける風は、皆さんからのコメントであったり、書きながら自ら気づくこと、また、それが無意識にも影響してくる夢でもあるんだな。

随分ポジティブに振り返ってみたが、旅は恥のかき捨てでもある。