贈与を受けた人が、贈与されたモノやサービスに付加して抱く感情として「返礼の義務感」、「うしろめたさ」、「余剰感や不足感などのズレや矛盾」、に加えて「感謝と祈り」があると、先日つぶやいてみた。

これに反応してくれた高野雅夫さんと戸田友介さんから「償い」の気持ちもあるよ、との指摘をもらった。

「償い」で連想したのが、マタギの「熊送り」儀礼だ。狩人のマタギが熊を射止めた後に行う儀式には、熊の命をいただくことに対する「償い」と、次の狩りに対する「願い」の意味があると聞いたことがる。

貴重なイノチに出会うことができたという「有り難い」気持ち、加えて貴重なイノチをしとめて食べるという「戴く」気持ち。自然からの贈与に対する返礼の言葉として、私たちが日常的に最もよく使う言葉「有り難い」や「戴きます」が生まれたのかもしれない。

「有り難い」や「戴きます」など、ありふれた言葉の中に、サムシング・グレートからの贈与に対する返礼の意味合いがあるとすれば、これは私にとって大発見なんだけど。

「コミュニティはつくるものではなく、生まれるものである」(現代コミュニティ論の出発点となったマッキーヴァーさん)

ならば、同様に「つながりはつくるものではなく、生まれるものである」といってもいいように思う。

つながりは生まれるものであるのに、つながりが失われていく現象がみられるのは、つながりを阻むそれなりの犯人が存在するということだ。

たぶん、貨幣のヤツの仕業だな。

貨幣は、薄情を促進する縁切りの黒幕でもあるが、ややこしい問題があったときに、間に入って「手切れ金」さように解決してくれる立役者でもある。

貨幣は、七変化の手強いジョーカーなんだ。

七変化のジョーカーということは、つながりを促進するように貨幣を集め、つながりを促進するように貨幣を使ってあげることもできるはずだ。その方法の一つが地域経済循環の考え方なのだろう。

地域で得た貨幣のバケツ漏れを防ぐために、地域内にある貨幣をうまく循環させていく考え方である。その結果、地域内につながりが生まれてくる。

まちづくり、地域再生、組織づくりで、ほぼ必ず出てくるキーワードが「つながり」である。それほど、現代はつながりを失いつつあるということの裏返しだろう。

そこで、人類のつながりを遡って調べていくと、言語、貨幣、親族の発明につき当たる。市場経済の中で、IT化の中で、これら3つの在り方が変容してきたことが「つながり方」に大きく影響しているように思う。

言語は情報の交換、貨幣は物の交換、親族は人同士の交換、それぞれの媒体・装置といってもいい。この変容をきちんと捉えた上で「つながり」を取り戻すなり、断ち切るなり、対応を考え直してみることが大事である。単に、つながりが大切といってみたところで、同調圧力を助長させるばかりで好転しない。

市場経済化、IT化の中で、情報や物や人の交換方法が合理化して行く。すなわち、これらを広く簡単かつ便利に行き渡らせるために、不満が出にくい等価交換であることに拘るようになる。厄介な人々の感情や意思を削ぎ落した交換が推奨されてきた。この合理化によって複雑に絡み合った「つながり」を薄めてきたと考えてみる。

ここで注目すべきが「贈与論」である。等価でない厄介な贈与に関わる者が抱くであろう「供与・受取・返礼の義務感」(マルセル・モースの論)、「うしろめたさ」(松村圭一郎の論)、「変則的なズレや矛盾」(近内悠太の論)、これらを見える化することから「つながり」を再構築できないだろうか。
(見える化したら贈与でなくなる、という論もあろうが、、)

例えば、先般「ティール組織」から学んだ「テンション」(ありたい姿と実態のズレ)をお互いに見える化して共有すること、「ミライの職業訓練校」で大切にしてきた「モヤモヤ」を共有する場を作って、互いに「モヤモヤ育て」をすることなどが、「つながり」を再構築する具体策になるような気がしている。

また、地域通貨を導入する際に、価値を合理的にポイント化して交換するだけではなく、あえて関係者の過剰な想い、うしろめたさ、変則的なズレを見える化した交換をしてみる。複雑なやり取りを見える化するために、AIのアルゴリズムを活用したデータ処理やブロックチェーンが必要になってくるかもしれない。

とりあえず考えついたことを、整理しておくためにここに書き記しました。「贈与論」をヒントにした「つながり」づくりに関しては、さらに、あーだこーだ考えてみようと思います。