「時間は自由に使っていいよ。明日までに2枚のシートが完成していればいいんだから。」
といっているのに「トイレ行っていいですか?」とか「休憩していいですか?」って聞いてくる。
「早く終わった人は、先に帰ってもいいよ。」って言ってあげたら「先生が早く帰りたいようだから。みんな早く終わろう」なんてじゃれてくる。
「一人でも残っているなら、私はここにいるよ」
と偉そうに言ったら「先生なんだから当たり前だよ。」と返された。
「確かにね。」とつぶやく。負けました。
「時間は自由に使っていいよ。明日までに2枚のシートが完成していればいいんだから。」
といっているのに「トイレ行っていいですか?」とか「休憩していいですか?」って聞いてくる。
「早く終わった人は、先に帰ってもいいよ。」って言ってあげたら「先生が早く帰りたいようだから。みんな早く終わろう」なんてじゃれてくる。
「一人でも残っているなら、私はここにいるよ」
と偉そうに言ったら「先生なんだから当たり前だよ。」と返された。
「確かにね。」とつぶやく。負けました。
娘の教科書を拝借してながめてみた。いまの高校の倫理の教科書ってよくできているよ。冒頭は高校生の視点から始まっている。
『「いま」、「ここ」、を生きるわたし』
わたしたちが生きている現代の高校生の日常を見てみよう。格差社会の到来といわれてひさしいが、あいかわらず身のまわりにモノはあふれている。高校生といえども、アルバイトでそこそこの収入が得られる。大人も忙しいのか、自信がなくなってしまったのか、最近はあまりうるさいことをいわない。
そんな、一見自由な日々を謳歌しているにもかかわらず。何ともいいがたい閉塞感が若者の中に漂っているように見える。何をしてもいい、自主性にまかせる。といわれれれば、何をするべきか決断をせまられるのは自分自身であり、成果や責任を問われることが見え隠れしているのだから、自由になんでも選べることは、むしろ重荷でさえあるようだ。みずから行動することができず指示を待って甘えていると大人たちから批判を受けるが、そんなふうに見える言動の一方で、孤独で不安な姿も垣間見れる。「友だちは大切に」と口をそろえてみないうが、それがときどき息苦しくもなる。いつでもどこでもつながるネットを介した人間関係の悩みも深まるばかりだ。「人間は自由の刑に処されている」というサルトルのことばがいやに現実的にひびく。
人間の「知の力」は、この地球を何度も廃墟にすることさえ可能な科学技術を生み出してしまった。何より、今日のつづきに明日があると信じて疑わなかった日常が一瞬のうちに破壊されることを、わたしたちは2011年3月11日、東日本で起きた大震災と、それにつづく原発事故によって経験した。いま、わたしたちは、これまで精一杯えがいてきた世界の設計図をもう一度見なおすことで、目をそむけてきたものごとを見すえ、考えなければならなくなっている。
それでも、そんな未曽有の事態に、多くの人々が少しでも自分にできることをしようと被災地へかけつけた。その中に若者たちの姿もあった。そんな非日常の中に立ちあらわれた人と人とのつながり、ささえあう姿、本当に大事なもののたしかさ、絶望の中で紡ぎ出される希望、未来への可能性を、「いま」、「ここ」を生きる「わたし」の日常の日々に活かしていく術を見出したい。非日常が日常の何気ない日々のかけがいのなさを輝かせると同時に、日常の日々が非日常のときをささえるに違いないのだから。
こんな書き出しから、青年期の課題、西欧哲学、世界の宗教、日本の思想史、自然と科学技術、国際平和について書かれている。
まさにSDG'sの背景が網羅されているようだ。今の私なら勉強したくなる内容なんだけど、、。それにしても、ひらがなが多いことに気づく。
リモート参加者がいるワークショップも何とか成り立つという感触を得ました。
模造紙やポストイットの書き込みは、リモート参加者からは見えにくいので、リモート参加者の意見はチャットで拾いデータ化して共有画面に展開。
これにはデジタル・ファシリテーショングラフィックの技術があるといい。これができればむしろ共有と記録はこちらの方が優れているかも。
対話や協議は、音声と文字データを組み合わせて10名ぐらいなら何とか。
全員初対面だとやり難そうだけど、これはリアルのワークショップも同じこと。
そうすると、リモート・ワークショップの課題はなんだっけ?
リモートWSで残念なのは、参加した人同士で無駄口がきけないこと、蝶や蜂の役割が生かされにくいこと、っていうのはあるね。蝶や蜂の役割とは、グループ間を渡り歩いたり、対話に入らずフラフラしている人のことで、「オープン・スペース・テクノロジー(OST)」という手法では、場づくりにとって大切な存在とされている。