カトリックとプロテスタントの宗教対立から始まった三十年戦争(17世紀前半)の反省として生まれた言葉が「リベラル」である。

不毛な戦いに疲れた人々は、「あなたの信仰の自由も認めますから、私の信仰の自由も認めてください」という考えに至る。嫌な奴の思想も受け入れる寛容の精神、これが「リベラル」の出発点である。

スペインの哲学者であるオルテガ(1883~1955)がいう「リベラル」とは、自分と異なる「他者」に対して、イデオロギーを振りかざして闘うのではなく、対話し、共存しようとする我慢強さや寛容さを持つ立場とのことである。

オルテガのいう「他者」の中には、この世を去った「死者」も入る。過去の人々が、失敗も含む経験を通して構築してきた英知の制約を受けて、我々は生きるべきで、その立場を「リベラル」とした。

そして、「大衆」と迎合することを嫌ったのもオルテガである。自分がみんなと同じであると感じてかえっていい気持ちになる人々のことを「大衆」として、「大衆」が、死者の存在を無視して、いま生きている自分たちが何か特権的な階級であるかのように考えていることに対峙した。

いま生きている人間の多数決によって決まる民主主義に対しても、「死者」の声にも耳を傾けろと警告した。

本日は、こんな考え方があることを書き残しておきたいと思ったのでした。(中島岳志さん解説「100分de名著『大衆の反逆』より)

会議をするときに、一つ席を空けて話し合う方法があるとか。
ソーシャル・ディスタンスのためではなく。

その空席は、会社や団体を一人の意思を持った存在として、他の参加者が意見を尋ねるためにある。進化型といわれるティール組織の一部が取り入れている方法らしい。

例えば、経営計画を検討しているときに、役員が、空席に向かって「あなたは、どうしたいですか?」と尋ねると、社長とは違う、意思を持った組織の意見が聞こえてくるという。

特に、「社長=会社」になっているような小さな組織には有効な方法と思われる。我が社=㈱PSサポートもその一つ。

社長が、コロナで売上もなくなったし、そろそろ会社をたたもうと思っていても、過去の実績や会社を支えてきた関与者等の社歴を背負った“法人さん”が、「まだ私のミッションは達成できていない。もっと有能な後継者を迎えて事業を継続したい。」というかもしれないのだ。

新しいコトを新しいヒトたちと始めようとするときに、お互いの自己紹介から入ることになるが、これがなかなか難しい。ここ最近、そんな場面が続いている。それも、オンラインとなると難易度を増す。

新しいコトとは何か? この場はどんなバであるのか? それがある程度見えていないと、自己を紹介しようがない。

そんな時、自己アピールをしようとすると、だいたい失敗のパターンに入っていく。一方、その場がわからないなりに、主催者や呼びかけ人と自分のつながりから話を持っていくとうまくいくことがある。

だから、およそ表現というものは、相手があって、場があってはじめて成り立つもので、自己紹介においても同様なのだったわけです。

加えて、「自分は媒体である」と最近の気づきでつぶやいたくせに、“自己”を表現しようとするからいけないのであって、コト、バ、ヒトとのつながりを媒体らしく表現すればよかったのである。

この気づきから発展して、昨日つぶやいた、私の筆圧が低下している要因も見えてきた気がする。すなわち、パンデミックという場が転換し、今この新しい期間の場がまだ読めていない中で、つぶやきといえども表現しようがないという状況にいるのだろう。

だから、今は、ラジオのチャンネルを変えるように、前の場から新しい場にチューニングしているところと思うと納得できる。しばらく、つまみをあっち、こっち回してみよう。