以前に戻った日となった。
母(妻)がつくった弁当をもって娘が学校に行く。父(私)は、会議に出るため朝から車で出動する。月例の報告を聞き、過剰なコーヒーに胸焼けしつつ、締めのお役でコメントする。お客様からこの時期に毎年戴く柏餅を持ち帰る。髪の毛が伸びてきたので例の床屋に行く。
前と違うのは、夜の後悔日記ならぬこの公開日記。そして、航海日記で移動してきた今のポジション。
以前に戻った日となった。
母(妻)がつくった弁当をもって娘が学校に行く。父(私)は、会議に出るため朝から車で出動する。月例の報告を聞き、過剰なコーヒーに胸焼けしつつ、締めのお役でコメントする。お客様からこの時期に毎年戴く柏餅を持ち帰る。髪の毛が伸びてきたので例の床屋に行く。
前と違うのは、夜の後悔日記ならぬこの公開日記。そして、航海日記で移動してきた今のポジション。
一昨日、SDG’sに関心を持つ若者が偶然訪ねてきたことで、3日続けてSDG’sについて考えてみる。(何もわかっちゃいない彼も、随分なはたらきかけをしてくる)
SDG’sが念仏だとして、これを「歎異抄」で読み解くと、なかなか深まるのである。
「悟りの仏教」を「救いの仏教」に転換したのが法然で、それを広めたのが親鸞である。「悟りの仏教」は難行で凡人には、なかなか広がらないCSRのようなもの。「救いの仏教」は易行で、いま誰もが唱え出しているSDG’sにあたる。ちなみにCSVは、はからいが満載の「自力の仏教」にあたり、企業以外のセクターには広めにくい。
浄土系念仏の「南無阿弥陀仏」を訳すと「この世に充ち満ちる限りない光と命のはたらきにおまかせします」という意味で、=SDG’s「持続可能な開発目標」と考えてみよう。(昨日コメントをくれた香山由人さんによれば、「開発」は仏教用語の「開発(かいほつ)」と理解してみるといいようだ)
理性や知性では届かない領域があり、そこに至るには「はからいを捨てる」というジャンプが必要だと親鸞は説く。それが「自然法爾」=「じねん」というやつである。本来の他力とは、自らのはからいを捨てて、天のはたらきに任せて生きることである。SDG’s、そのココロは他力にある。
ここでSDG’sを本気で考えだすとき、気になるのが前文の「誰一人取り残さない世界を目指す」の文言である。これに対しても「歎異抄」では、人々を救う考え方を「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」と分けて考えている。現世では「聖道の慈悲」は無理だから、念仏を唱えて上で浄土に往生し、仏と成って人々を救えと「浄土の慈悲」を説いた。
親鸞は、凡夫向けにある意味わかりやすく仏の道を教えてきたが、間違った解釈が世に広がってしまった。これではまずいと、弟子の唯円が“異議を歎いて”「歎異抄」を編纂し、リミッターとした。そんな歴史に学ぶとしたら、SDG’sのリミッターとなる「SDG’s歎異抄」が、今後求められることになるだろう。
「歎異抄」のネタ本は、『100分de名著「歎異抄」』(解説:釈徹宗)です。薄い冊子の割に内容が濃い。SDG’sを理解するためにもお薦めします。
SDG'sを唱えさえすればみな救われる、いわんや、、、。
法然の教え「南無阿弥陀仏を唱えさえすれば、誰でも天国に行ける」を受けて、親鸞は「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」、すなわち「善人でさえ往生できる。ましてや悪人なら尚更、阿弥陀仏の導きで成仏できる」と歎異抄で有名な悪人正機説を唱えた。
親鸞の「他力本願」とは、煩悩や悪にまみれた自力では往生できない人間(善人)を救おうとする阿弥陀仏の本願がある中で、ただひたすら念仏を唱える(悪人になる)ことによってのみ救われるという思想である。
南無阿弥陀仏をSDG'sに置き換えると、こうなる。「SDG'sを唱えさえすれば、誰でも持続可能な社会に行ける。いわんや悪人をや、、、。」
SDG'sをきちんと学んで自力で行動する善人には、持続可能な社会を実現させるこ とはできず、昨日の若者のように(?)、ただひたすらSDG'sを唱える他力によってのみ、持続可能な社会が実現できる。
この置き換えは、ブラックジョークとして思いついたんだけど、別の視点からするとマジでホワイトな真実かもしれないと、、、。別の視点とは、本来の他力である。