自分の死に方を考えてみると、「野垂れ死に」が理想だな(突然ですが、昨日のつぶやきの続きです)。病院で死を迎えるのは好まない。多くの人もそう思うでしょう。自宅もちょっといい感じがしない。残るは「野垂れ死に」じゃない? 山を歩いていて体力が消耗して、動けなくなり死んでいく。理想的な終末に思えるんだけど。

ただ、文明社会での「野垂れ死に」は、家族や周りに迷惑をかけてしまうので、実際はそれを好んで選択する人はいない。人口密集地帯で、みんながこれを選択したら大問題だ。

この死に方の問題は、人類が定住を選択した約1万年前から始まっている。定住したがゆえに生存者の生活空間と死者を分け、ちゃんと埋葬するお墓が必要になった。農耕を選択し、定住生活に移行し、文明化するにしたがい「野垂れ死に」がしにくくなってくる。

シンプルな生き死にという意味では、人類700万年の歴史を持つ狩猟採集民を見習いたいところ。一緒に移動する体力が無くなれば、お別れするしかない。狩猟採集民のお別れは、瞬間的には涙を流して悲しむが、立ち直りも早いと聞く。

死に方のことを考えると、人間関係があっさり系で分裂気質気味の遊動民(ノマド)に軍配。土地にこだわり、人間関係を粘り強く調整してきた執着気質気味の定住民族には、つらいところがある。

この辛さを開放するために人類は、宗教を発明したんじゃないかな。

ソリューションを当事者自ら考えてもらうこと、そしてこれを手助けすること、よくよく考えると、これが難しい問題だ。

昨日、「何を食べたいかも自ら考えてもらう」と象徴的に食について書いたが、結局、サービスの受益者が何を幸せと考えるかという価値観の問題になり、究極的には、どう死にたいかまで考えてもらわないと、いいソリューションは見えてこない。

とりわけ、人口減少著しい地方の看守りサービスを考えるとき、それが喫緊の課題なのである。押しつけのサービスは、本人の自尊心をも奪いかねないし、じゃー、どう死にたいかなんて直接的に聞くわけにもいかない。

個別に寄り添って一緒に考えるしかないんでしょうけれども、ここで未来からの視点を取り入れてみると、さらに揺さぶられてしまう。

コロナ対策として、個人の生体情報を集めてウィルス感染状況を見える化する取り組みはもう始まっている。本人すら自分が、どのように死にたいのか、なかなか答えられないところに、ビッグデータをもとにしたAIなら的確な死に方の判断をしてもらえるかも知れないのである。

本人の生体情報も含んだ個人情報の集積から、AIが本人の好みや個別生体を捉え、死に方をアドバイスしてくれる未来がやってくる。そんな選択肢があったとして、初めのうちはAIの判断に頼らない人が多いはずだが、そう判断した自律人の死に方のデータまでAIが集積していくとしたら、、。

私たちは、それでも死に方を自分で考え抜くのか、生前から死後までの多様な人類歴データを集積したAIのアドバイスの方が安全で幸せと判断し、委ねるのか?

と書いているうちに、話が展開しすぎてしまった。できたらもっとシンプルに生き死にしたい。

「それは誰のためにやっていることなのか? よく考えろ」という議論はよくある。ビジネス、福祉、教育、政治どの分野でもよく出てくる。

そんなとき、賢い人ほど「当事者のニーズをきちんと聞いて、分析して、ソリューションを提供する」ということを言う。ここで気になるのは、いつも賢い人は”ソリューションを提供する側”にいることだ。

自分は一歩外に出て、サービスを施す側にいる。そのスタンスで本当に当事者のためになるのだろうか? いくら当事者のニーズを聞き出したとしても、結局、提供する側の都合や基準で関わっていないだろうか?

地域サービスの在り方で、ボタンの掛け違いを整理しようとしていた今日の会議で、そんなことをつらつらと考えていた。

では、どうしたらいいのか? 当時者が自らソリューションを考え、自ら解決に向かって行動するために、何ができるかを考える。当然、ソリューションは一人ひとり違ってもいいし、誰もが自ら解決できる状況にあるわけではない。そこで、当事者の外にいる人たちは、考える手助けをする、行動の伴走をする、ということか。

ここまで書いてきて、な~んだ、それならNGOの世界でよく言われている援助の原則を思い出せばよかったのだった。「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよう。その前に、釣り竿の作り方を一緒に考えよう」だったかな。

豊かな日本では、その前に何を食べたいかも自ら考えてもらわねば、、