自分にとっての学び場は、今この現実だということは、間違いのないことだと思うけれども、そういう考えに至るには、自分なりの歴史がある。
学びのコペルニクス的回転は、大学時代であった。それまでのお勉強というのは、騙しの学びであったことに気付く。高校までは、正解は教科書にすべて書いてあり、先生が答えを持っていた。だからお勉強がちっとも面白いとは思えなかった。
大学の時のある先生との出会いがあるまでは、世の中の問題の答えは、自分よりずっと頭のいい人たちが全部解明してくれていて、我々生徒たちはそれを覚えたり、正解を教えてもらえうものとばかり信じ込んでいた。
実際には信じ込まされていた。これは、私がアホだったからであって、一概に先生や学校のせいとは言えないが、、。自分にとっての学校教育とはそういうものだった。
ところが、「桜はなぜ春に咲くのか」を大真面目に研究していた大学教授は違っていた。ある時、私は勇気を出して先生に聞いてみた。「桜が春に咲くなんてことは、小学校理科の教科書にも出てくるようなことであって、なぜ、そんなことを大学で研究するのですか?」と。
そうしたら「君は教科書に書いてあることがすべて正しいと思っているのか?」と教授に問われ、「答えは桜に聞かないとわからないだろう」と返された。
必要だと言われて無理に勉強してきた教科書が正しいとは限らないというのか? この教授の問いは、私にとってコペルニクス的回転であった。自明であるとされていることであっても「実はわからない」ことがるということは、自分でも正解もしくは世の真理を探る余地があるということに、この時はじめて気づいたのであった。
正解や真理は教えてもらうものであって、自分で考えるものではないと思い込んでいたところ、自分でもその正解や真理を探る余地があると気づけたことは、大変大きな学びであった。
そこからお勉強ではなく、学ぶことの楽しさが少しずつ分かるようになっていく。その教授の下で、「コオロギはなぜ秋に鳴くのか?」「サザンカはなぜ冬に咲くのか?」の実験に取り組んだ。大学の2年間ではとても答えは出せなかったが、自分で考え、学ぶ面白さを大学生になって初めて体験したのである。
ここで大事だと思うのは、私の学びは、教えられたことで触発されたのではなくて、「オレもわからないけれど、わからないから桜に学んでいるんだ」と、この教授の姿勢に触発されたということ、それこそが私にとっての学び場になったということである。教えてくれた内容ではなく、「わからないことがある」と言ってくれた一言があったから、自らが学ぶ余地を見い出すことができたのである。
これは私の全くの偏見であるけれど、あれ以来、お勉強優等生の教え好きの先生が教えてくれることは、むしろ害であると思うようになった。だって、学び盛りの小学校から高校までずっと教科書が正しいと言われて、偽りのお勉強させられてきた実体験は大きいのである。これぐらいの偏見はあってしかるべきじゃない?
