非常にお久しぶりです。ここまで浮上しなかったのは本当に久しぶりではないか・・・?
7月以降の総移動距離がなかなかなことになっており、その期間中に出張先の地震をすれすれのラインで躱した先の、豪雨で覚醒した長良川の本気を垣間見て恐れ慄き、帰省して戻ってきた矢先に気温40℃を叩き出していた多治見の本気に震え上がり、わかった!私が悪かったから勘弁してくれ!(←何が?)と思った最近です。
熊本が避暑地になるなんて思いもよりませんでしたよ・・・
(それでも36℃でしたが、体温で考えると平熱と高熱で全然違いますよね!)
さて、長らく放置していた上塚 周平 with B (Brazil)の記事ですが、地元ではずいぶんな盛り上がりを見せていますよ!
恐らくこれで(現段階では)上塚記事は区切りがつきますが、波に遅れないように記事をあげますね!
31歳にして大学新卒の上塚 周平の就職先として紹介されたのが、水野 龍(みずの・りょう、1859~1951)が設立した「皇国殖民会社」。皇国殖民会社は民間の移民斡旋会社で、移民政策が機能して最初のハワイ移民を除いては、民間の業者がエイチ・アイ・エスみたいな感じで移民希望者を海外に送り込んでいました。英語に堪能、大学では法学部にいたため国際法にも通じていたと思われる周平は、この民間の移民斡旋会社に水野の右腕として推薦され、就職しました。
(・・・ブラジルの公用語、英語じゃなくてポルトガル語だけどな。周平さんもブラジルに渡ってから「おぅふ・・・」となったらしく、現地にて文字通り死ぬ気でポルトガル語を勉強しています。そして、連れて来た移民にポルトガル語を教えていました)
その後の周平さんの苦労話はサンパウロ人文科学研究所の該当ページやwikipediaの記事などでも読むことができるので端折らせていただくことにして、本記事では、日系移民がいかにしてできたのか(単純に「移民」というと、「日系」(日本から外国に永住する)と「在日」(外国から日本に永住する)のどちらも含みます)について、明治時代の日本の情勢からシンプルかつシンプルかつシンプルに書きたいと思います。海外事情が絡むと、一気に情報量が増えてなんだかよくわからなくなるので、日本とブラジルの二国の事情だけ取り上げますね。
まず、日本の事情としては、「産めよ殖やせよ」がスローガンの富国強兵と日清・日露戦争勝利の好景気によって、人口爆発が起きていました。働き手が増えるのは嬉しいことだけれども、働き手となるに成長するまでに様々なものを消費する。資源はこれまでと同じ分しかないため、確実に足りなくなるわけですね。間引きが許される世でもなくなっていますし、国内での食い扶持を減らすために国外に行ってもらう―――「移民政策」が誕生するのです。
大日本帝国政府は魅力的な言葉を用いて国民を国外に出そうとしました。なので、大半の移民は希望を持って海を渡ったはずです―――「今より豊かな暮らしができる」と。ただ、人々への告知の仕方は都道府県によって様々だったようで、熊本県は初めから「移民」という言葉を前面に出して募集しています。一方で、広島県や福井県、群馬県などは「出稼ぎ」の名目で移民を募集しており、これが後々の移民の定着率にまで影響を与えます。と、いうのも、「移民」と「出稼ぎ」では「一時的に日本を離れるか、一生日本を離れるか」といった点で意味が違っており、そもそもの心構えが変わってくるのです。心構えだけでなく、渡航する人の種類も違い、「移民」と告知された地域では本家を絶やさないために次男・三男家族の渡航が多かったのに対し、「出稼ぎ」と告知された地域では帰国できると信じていたため一家総出での渡航が多かったのだとのこと。
いずれにしても、日本政府としては移民を「派遣する」といった感覚でした。
(ちなみに、熊本県の移民受付所は熊本市中央区新町の文林堂(明治10年開業、現在も営業中)にありました)
一方、ブラジルの事情としては、欧米で広まった奴隷制度廃止運動の波を受けて1888(明治21年)に奴隷制が廃止され、労働力不足に陥っていました。日本より前に移民を派遣した国はありましたが、当時のブラジルは奴隷の働かせ方しか知らなかったためどの国も手を引いてゆき、労働力不足は改善しなかったといいます。日本はそれを知らず(また、欧米による人種差別を受けてアメリカやそれに準ずる国の移民受け入れが制限されてしまったことから)、移民契約を結んだのです。
ブラジル国政府としては、日本移民を「奴隷として受け入れる」といった感覚だったのでした。
故に、移民たちは壮絶な経験をし、ほんの一握りしか生き残ることしかできませんでしたが、その一握りこそが何代もかけて農場主や経営者の地位を手に入れ、今やブラジルの一地域を代表するまでになっています。
しかし、彼らが傲り高ぶることはありません。「日本人」であること、ブラジルのちょうど裏側に位置する遠い祖国にいつの日か帰った時、胸を張っていられるように誇りを持って生きているからです。
二度の戦争を挟みつつも太平洋戦争後も再開されていたブラジル移民ですが、1964(昭和39)年の東京オリンピックを契機に移民政策は消滅します。それは、高度経済成長を経て日本が全国民を抱え込めるようになった証。日本国民の「出稼ぎ」の先は、海外ではなく、東京になりました。
現在は、外国人が日本に「デカセギ」に来ていますね。
10年ほど前に、日系ブラジル人のかたとお会いしたことがあるのですが、明治時代のいわゆる大日本帝国国民とはこのようなものだったのだろうかと思わせる不思議さを感じたことを憶えています。確かに同じ日本の血が流れていると感じるのだけれど、大日本帝国がなくなっていなかったらというIFやパラレルワールドに直面したような感覚。現に、彼らは大日本帝国がなくなったとは思っていないし、教育勅語は受け継がれているし、祖国のためには体を張りそうな勢いでした。戦後の日本の変容を情報としては取り入れつつも「あの毅然とした態度はどこいった!祖国!」と情けなく思ったりもするそう。NHKを毎日観ていると知って、身近に感じたりかわいらしくも感じたり。
実は、今年が上塚 周平のつくった移住地を原型とする市・プロミッソンが誕生して100年の年であり、本日(ブラジル時間の7/22)、プロミッソン入植100周年記念祭が現地の上塚周平公園で行なわれています。