おて~もや~ん♪ あんたこの頃嫁入りしたではないかいな♪

 

『おてもやん』という言葉は、誰でも一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。どこの言葉かはわからずとも。

一番身近に遣われる関連ワードは「おてもやんメイク」ではないでしょうか。チークをつけすぎて頬だけやけに目立っちゃうやつ。残念メイクの代表ですが、おてもやん発祥の地である熊本でもそんな滑稽&愉快なキャラクターがおてもやんのイメージです。歌詞も、

 

嫁入りしたこたァ したバッテン

御亭(ごてい)どんが菊石面(ぐじゃっぺ)だるけん

まァだ盃ャ せんだった♪

(意味:嫁入りしたことはしたけれど、亭主はあばたの残った不細工な男だから、三三九度の盃は交わしていないの)

 

と、お前はどこの久坂玄瑞だよというようなすごい歌詞です。ひたすらツンツンした歌詞かと思いきや

 

(中略)

私ャ あんたにほれとるばい ほれとるバッテン いわれんたい

(中略)

男振りにはほれんばな

煙草入れの銀金具が それがそもそも因縁たい

(意味:男は外見だけでもないわ。銀金具のついた煙草入れから煙草を出して吹かす男っぷりにほれてしまうのよ)

 

と、急にデレデレし始め、好きなよ~うにぺらぺら唄った後には勝手にひとりで照れて

 

アカチャカ ベッチャカ チャカチャカチャ♪

 

と、謎の呪文で締めています。くぁwせdrftgyふじこlpやアッチョンブリケのようなもんですかね(←オイ)

 

 

 

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おてもやんは富永 登茂(とみなが・とも、1855~1935)という実在の女性がモデルだろうということは以前からいわれていましたが、ではその富永 登茂は一体どんな女性だったのか。本記事では、おてもやんの真実と題して、頬紅つけてアカチャカベッチャカユカイなだけではない、強くたくましく生きた等身大の彼女について書いていきたいと思います。

 

 

 

笑顔色白の美人・チモ笑顔

登茂は「とも」と読むのに間違いはないですが、訛りの関係で実際は「チモ」と呼ばれていたようです。そのためか、「富永 チモ」と紹介されることが多いです。

そして、おてもやんチークのイメージを早速壊すような「チモは色白で丸顔、長身の美人だった」という言葉が残っているよう。

 

チモは飽田郡横手村北岡(現・熊本市西区春日)出身。現在は熊本駅がある地域ですが、当時は一帯が農村地帯であり、小作農の娘として生まれました。彼女の家もまた、貧しく、チモが18歳の時点では既に両親はいなかったといいます。しかし、7歳年下の「登寿(トジュ)」という名の妹がおり、晩年には身を寄せ合って暮らすなど心の支えとなっていたようです。

西南戦争では家の近くである北岡神社に薩軍が本陣を置き、いつ戦に巻き込まれるともしれぬ環境にいましたが、幸いにも戦禍は免れました。

 

 

笑顔旭楼のチモ笑顔

チモとトジュは字の読み書きができなかったことが確認されています。男でないがゆえ小作農も継げず、更に教養もなかったとなると、開かれた道は一つだけ。更に、チモとトジュが住んだ春日は、二本木の隣にあたる地域。そう、二本木は東雲楼(しののめろう)をはじめとした西日本有数の花街がある地域でしたね。花街が成立するのは明治になってからなので、それより前からその近くで暮らしていたチモたちは、目の前に突如広がる華やかな世界にさぞや驚いたことでしょう。

彼女らもまた、今よりも幸せになるためにその世界に飛び込んだのです。チモ25歳、トジュ18歳の時のことでした。

 

チモとトジュは二本木花街の『旭楼』という料亭で働いていたと推測されています。昼間は残された農地で農作業(小作人を継げなくても農地を没収されることはなかった)、夜に料亭で働く日々を送っていましたが、やがて料亭一本でやっていくようになります。というのも、明治24(1891)年に熊本駅が開業し(当時は春日駅)、それに合わせて二人の家と農地は駅の敷地となり、立ち退きをしたためです。こういう話を聞くと、彼女らは本当にこの時代に生き、歴史的な瞬間に直面したんだなって実感しますよね。

チモが何歳までこの二本木花街で働いていたのかは不明ですが、80歳で亡くなるまでずっと春日の地を離れませんでした。

 

 

笑顔チモは嫁入りせんだった!笑顔

実は、チモは嫁入りしていないと考えられています。富永 チモは姓も変わることもなく、富永 チモのまま生涯を終えているからです。

♪御亭(ごてい)どんが菊石面(ぐじゃっぺ)だるけん♪の御亭どんは牛島 彦一という名の青年を指しています。牛島家は上益城郡益城町寺迫にありましたが、県道28号線の拡張に伴い、彼らもまた立ち退きをしています。彦一は繭の仲買人をしていました。天然痘の後遺症で顔にあばたがあり、そのために30歳を過ぎても独身でしたが好人物だったそうです。

しかし、住まいを見ての通りチモと彦一に接点は感じられません。また、♪まァだ盃ャ せんだった♪の後には♪村役(むらやく) 鳶役(とびやく) 肝煎(きもいり)どん♪という歌詞が続くのですが、肝煎どんは保田窪村(現・熊本市東区および中央区保田窪(ほたくぼ))の村長のことであることがわかっており、地元の人には分かると思いますが春日と寺迫、保田窪いずれも結構離れています。これら三者が接点を持つことはなかなか考えがたい。

 

 

しかし、これら三人を結びつける人物がいます。それが、『おてもやん』の作詞・作曲者である永田 稲(ながた・いね、1865~1938)です。イネは、チモ・彦一・保田窪村の村長のいずれとも知り合いであると思われます。

 

 

笑顔イネから見たチモの唄笑顔

永田 イネは、かつて米屋町(現・熊本市中央区米屋町)にあった肥後細川藩御用達の味噌醤油の豪商『椛屋(ももや)』の一人娘でしたが、明治維新によって家が没落し、芸事で身を立ててゆかねばならなくなりました。彼女もまた、東雲楼のある二本木の花街に飛び込んだ一人なのです。そこでチモと出会います。

イネとチモでは生まれも、素養も、才能も違います。そして、二本木での立場も違います。イネは一座を率いて名古屋や関西に巡業できるほどになったエリート。年頃の娘の時にこの世界に入ってきてもいますし、正直、現代の感覚で捉えても微妙な年齢で入ってきたチモとは比べるべくもありません。しかし、イネは10歳も年上のチモに惹かれます。いえ、むしろ10歳も離れていたから素直に惹かれることができたのかもしれません。

 

イネがチモをどんな人物と捉えていたかは、『おてもやん』の歌詞を見れば一目瞭然です。

 

あとはどうなァと キャアなろたい
川端町(かわばたまち)ツァン キャア めぐらい
春日ぼうぶらどんたちャ しり引っ張って 花盛り 花盛り
ピーチクパーチク 雲雀(ひばり)の子 ゲンバクなすびのイガイガドン♪

(意味:後はどうにかなるでしょう。そんなことより、川端町を巡りましょ♪

春日かぼちゃのような男たちが着物の裾を引っ張ってきて、モテてモテて仕方がないのよ。私の人生は今が花盛り。

でも、雲雀の子のようにピーチクパーチク浮かれているような男や、玄白なすびのへたのようにイガイガした頑固な男は好みじゃないわね)

 

「なんとかなるさ」というほどよく肩の力が抜けた感じと、現状を楽しむ前向きさ、さばさばとした自然体なところが稽古で常に気を張っていたイネの心を癒していたのかもしれませんね。

 

特別なものは何も持っておらず、一庶民に徹し、時代の変化を素直に受け入れていったチモ。そのたくましさは、どちらかというと男性よりも女性に好かれるものだったのかもしれません。

 

 

チモは生涯、結婚しなかったようなのですが、60歳前後で養子をとっています。「孝」という女の子で、彼女が独り立ちするまで女手一つで育て上げました。トジュと再び暮らし始めるのは、孝が独り立ちした後になります。

孝が「チモが『おてもやん』のモデルだった」と公表したことで、おてもやん研究は急速に前に進むことになるのです。

 

 

 

『おてもやん』が意外と最近の唄であることに驚いたかたもいるかもしれません。ですが、それ以上におてもやんが幕末~昭和に生きた人物であることに私は驚きでした。

え、ということはおてもやん、だいぶ前に取り上げた尾形 百恵と生きた舞台が丸かぶりですね。もしかしたら面識があったかも??

そして、おてもやんも百恵ちゃんも性格がどことなく似ていますよね。熊本人は結局、そういったおきゃんな女性が好きということなのでしょうね(笑)

 

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出典を示しておきます。“唯一”深く調べてあるおてもやん研究本と言っても過言ではありません。