私が歴史関係で好きなスポットは、城、石碑、そして学校で、学校については、藩校、私塾、また時代も問わずどの学校も守備範囲です。訪れた学校は、会津藩校日新館(福島県)、水戸藩校弘道館(茨城県)、足利学校(栃木県)、元昌平黌・湯島聖堂(東京都)、松代藩文武学校(長野県)、松下村塾(山口県)。

 

子どもの頃から、勉強は好きではありませんでしたが教育には興味がありました。教育にはそれを教える先生の方針というものがあり、その方針は果たしてどこから来ているのか、先生が私たちに求めるものは何か、そして、それは私たちが応えるべき要求なのか(或いは、教えられたことというのはそのまま鵜呑みにしてよいものなのか)、総合すると「彼らは何故、自信を持って、堂々と、上の立場からこうだと断言できるのか」というめんどくさ~い疑問があったからです(笑) どうして私たちは彼らの言うことに従わなければならない?これって実は、とても理不尽なことではないのか?と。もちろん、そういう姿勢だと勉強に身が入らないので、基本的に成績は下から数えた方が早かったよ★みんなは素直に勉強しましょうね★

 

 

さて、何故こんな話をするかというと、年末にこんな本を手に入れたからです。

 

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『カタルパの樹~合志義塾ものがたり~』 彩宮純・橋本博 (合志市・合志市教育委員会)

 

2014年に出版された本ですが、この作品については帰省前にはべろんより情報があり、2017年10月に『合志義塾~カタルパの樹がつなぐ明日~』の名でドラマ化されたそうです。キャストがイケメン揃いだったそうで。ものすごく観たかったですが、九州の一部の地域でしか放送されなかった・・・一部でしか!!

それにしても、このいかにも郷土本っぽい装丁はどうにかならんか・・・教育委員会絡んでるからどうにもならんな・・・・・・

 

 

1.0 合志義塾のシンボル

 『カタルパ』というのは、アメリカキササゲという植物(キササゲの和名は『梓(あずさ)』)のことをいい、合志義塾に関連するカタルパは、新島 襄がアメリカから持ち帰って同志社大学の庭に植えたものの苗木を、彼の学生だった徳富 蘇峰が分け与えられ、自身の私塾・大江義塾の庭に植えたものです。(襄と蘇峰の関係は『八重の桜』を思い出して!) 蘇峰から苗木を分け与えられて合志義塾に植えられるので、同志社大学と大江義塾、合志義塾のカタルパは親と子・孫の関係ということになりますね!

 

 

1.1 沿革

 合志義塾は、明治25(1892)年に設立された農民のための学校で、なんと、戦後である昭和25(1950)年まで学校としての機能を果たしています。

 

合志義塾の創設者は、彼ら。

 

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工藤 左一(くどう・さいち、1864~1942)

・・・菊池郡西合志村黒松(現・合志市合生(あいおい))の郷士の長男。西南戦争では村を焼かれる、という意味で巻き込まれる。8年課程の小学校を4年で卒業し、15歳で教育の現場に立つ秀才。小学校訓導(くんどう=教師のこと)になるが、富国強兵・殖産興業といった国の定めた方針に国民を誘導していく教育に疑問を抱き、辞職。合志義塾を創設する。「鬼工藤」というどこかの組で聞いたことのあるあだ名を持つ塾長。

 

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平田 一十(ひらた・いちじゅう、1865~1938)

・・・左一の従弟。小学校卒業後、すぐに教育現場に携わった左一とは違い、複数の学校での学生経験を経て訓導となる。徳富 蘇峰の開塾した大江義塾の学生でもあった。合志義塾のシンボルであるカタルパは、蘇峰から一十に託されたもの。こちらは「福々平田」という、多少ひねってはあるもののやはりどこかの組で聞いたことのあるあだ名を持つ副ちょ・・・副塾長。

 

 

1.2 教育方針

 この学校の教育方針は、師弟同行・男女共学・学団の3つです。

 まず、師弟同行(していどうぎょう)は、塾生を一人格としてしっかり認め、師弟同じ土俵に立って同じことをやることをいいます。塾生の行うことが明らかに間違っていても、怒ることはせず、解説しながら先生が目の前で手本をやって見せ、それを真似してもらうという方法を取っていたそう。その教え方を、現代ではモデリングといいます。

 次に、男女共学。男女だけではなく、お年寄りや外国人も学べる学校を目指しました。男女共学は当時「保守的な熊本ではほとんど例がな」かったそうですが、それだけでなく外国人も視野に入れていたなんてすごいですね。この「男女共学」「外国人も対象」だったことについては、次の「学団」と併せて説明したいと思います。

 最後に、学団。学団はいわゆる「グループ」のことで、全塾生をグループ編成し、互いを競わせ、切磋琢磨し、自主自治の精神を養う方針です。以前紹介した、肥後熊本藩における武士教育のための自治組織「連」と似ている部分も感じますが、由来はそこではなく、イギリスのパブリックスクールの伝統な慣習である「学団」から来ています。

 

そもそも、「学団」の考え方を先に取り入れたのは、一十の師である徳富 蘇峰が開いた大江義塾です。そして、蘇峰が同志社大学に編入する前に通っていたのが「熊本洋学校」というところ(「熊本バンド」の原点です)。熊本洋学校は、いわゆるお雇い外国人が設立し、教鞭を執った学校で、明治維新後日本で初めて男女共学を実施しています(その際の入学生に横井 小楠の娘がいます)。え、保守的とかいってるけどめっちゃ先駆者じゃん。てか、蘇峰さん存在感すさまじくないっすかね・・・?

合志義塾は、偶然か必然か、大江義塾だけでなく、熊本洋学校の考え方も汲んでいるのですね。蘇峰怖い。

 

 

1.3 カリキュラム編成

〈初等科〉

・公立学校における高等小学校に相当。修行年限は2年(開塾当初は3年)

・科目:修身(道徳のこと)、国語、算術、地理、歴史、理科、農業(男子のみ)、裁縫・作法(女子のみ)、体操

  ※ 当時の小学校令のカリキュラムにほぼ同じ

 

〈普通科〉

・公立学校における尋常中学校に相当。高等小学校卒・合志義塾初等科卒に準ずる基礎学力を有する者が対象。修行年限は3年

・科目:修身、国語漢文、作文、習字、英語、数学(代数幾何など)、地理、日本史、外国史、理科(動植物鉱物学など)、図画、体操(普通体育撃剣)

 ※ 当時の尋常中学校のカリキュラムにほぼ同じだが、塾生が農民であることを考慮し、農業に応用できる単元を選定

 

〈学団〉

・編成:忠厚団、勇敢団、忍耐団、勤倹(きんけん)団、貞淑団の5団。貞淑団は女子のみで編成。

団監(だんかん):学団のリーダー。各団に3人配置。朝の体操、朝礼、勉学、撃剣稽古、掃除、終礼の指揮をする。指揮は団ごとの持ち回り制であり(このことを、会団という)、教員は一切干渉しない。

 

会団の訓示

一.前行者の足跡を践(ふ)むこと。

一.合志義塾の体面を汚さぬこと。

 

 

1.4 学校行事

・運動会

 月に一度、近くの山海に遠足をする行事。弁天山や金峰山を歩いて登ったという(近いか!?)

・大運動会

 年に一度、阿蘇山、弁天山、金峰山を登山往復する一大行事。当日の集合時刻は午前2時。

 一十先生が大江義塾におられた頃に徳富 蘇峰先生から教えられた身体鍛錬法が取り入れられ、行事として昇華したもの。うらむなら蘇峰をうらめ。

 

 

左一と一十が教育に求めたこと

 私が彼らを面白いと思ったのは、明治も明治、一丸となって欧米列強に肩を並べるよう頑張ろう!と、鼻息荒くして一方向に舵を切っている国の教育に対して、「は?」といううっすい反応を示しているところです。合志義塾は評判を呼び、公立学校になるチャンスはあったようですが、公立学校になるには国の方針に従わなくてはなりません。当時の国の方針は、富国強兵・殖産興業。そういった方向に国を持っていくには、幼少期からの軍人を養成する教育が重要となってくるわけです。農民を束ねる郷士の家に生まれ、西南戦争で自分の村を焼かれた左一としては(しかも、左一の村を焼き払ったのは、薩摩軍の進軍を恐れた官軍だと考えられています)、そもそも軍人の在り方に疑問を抱いたでしょう。軍人を食わせているのは他ならぬ食料を生み出す農民たちですが、軍人は彼らを必要な犠牲として切り捨てることがあるわけですからね。では、そんな時、自分たちはどう生き残るか。あなたにとって、私にとって、今この環境の中に生きる者たちにとってまず必要なものは何か。国が、教育が私たちに求めるのではなく、私たちが必要なことを教育に求めるのだという姿勢で私塾であることを貫き徹したこと、塾生に教える情報を絞り、教養のあること、知識があることの必要性の方を重点的に教え、実感させたことが彼らのすごいところだと思います。

 

左一と一十がとらえた『教育勅語』

 合志義塾も公立学校などと同様に、『教育勅語』をバイブルに修身教育を行っていました。(余談ですが、『教育勅語』を書いたのは井上 毅(こわし)・元田 永孚(ながざね)という熊本人であり、彼らはいずれも横井 小楠の肥後実学党との関わりが深いです) 教育勅語側としては、たぶん、本文の「常に皇室典範並びに憲法を始め諸々(もろもろ)の法令を尊重遵守し、(中略)、一身を捧げて皇室国家の為につくせ」(現代語訳)の部分を最も強調したかったんだと思うんですが、彼らはそれより前の部分である「父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり・・・」の文に「だよね!!」と共感し、国家も大事だけど自分たちの家族や生活が一番って先輩たちも言ってる!とそこを重点的に取り入れます。さすが熊本人、先達をリスペクトしてるようでリスペクトしてない!(爆)

 

 

そんな合志義塾も、最終的には市長を輩出するほど立派な教育機関となり、昭和25年、学制改革を受けて58年の幕を下ろします。現在、学舎は既になく、『合志義塾跡』の石碑とカタルパの樹が立っているそうです。

 

 

 

2018年最初のくまもんもん記事でずいぶん気合いを入れてしまいました。いつもより更に長文になってしまい、すみません。

そして、本記事に書いてあることの半分以上は本書のストーリーとは関係ありません。つまり、ネタバレじゃないね!(爆)

本書は左一と一十が合志義塾を開塾するまでの人間ドラマが主軸です。手に入れられる人は見てみてね。

(左一と一十の写真画像は合志市のHPよりお借りしています)