昨日、中途半端な時間に京都での用事があったので、少し早めに家を出て、ずっと実際にこの目で見たかった小川亭跡に寄ってきました。
小川亭跡の碑。京阪電車『三条駅』に直結している三条南ビル敷地内にひっそりと建っています。見るからに江戸時代から創業していそうな老舗の蒲鉾屋さんが真ん前にあるので、碑自体は見落としやすいですがかなりわかりやすいところにあります。
京都縄手通三條下る小川亭の老主婦てい女は、勤王婆さんとして有名なり。小川亭は、偶々(たまたま)、肥後藩邸より其(その)離れ座敷が鴨川一帯を見晴し眺望宜しきを以て、勤王討幕の謀議處(所)として使用せられ、小川の後家二人は其世話をすることゝ(と)なれり。
當時(当時)同家へ出入せる武士は、
・住江甚兵衞(すみのえ・じんべえ、1000石の武士で肥後勤皇党の藩政的首領格。下級武士がメンバーの大半だった肥後勤皇党は、上級武士である彼を通じて藩に意見を述べていた)
・川上源齋(河上彦斎)
・轟武兵衞
・宮部鼎藏
・山田信道
・高木元右衞門
・藤村紫朗
・桂小五郎
・平野次郎(平野国臣)
等にて、後年、國臣(国臣)の銅像を故郷に建設する時、てい女は肖顔(にがお:肖像画、似顔絵のこと)の檢證役(検証役)となれり。維新後は娘のおはると共に旅宿を營みたりしに、勤王婆さんを慕ひて投宿するもの頗(すこぶ)る多く、大正十二年七月十日九十歳にて死亡せり。
小川亭は、前身を肥後熊本藩御用達の肴屋『魚卯』(うおう)といい、「てい」さんの夫が亡くなったことで家業を継げなくなり、旅館に転身したものです。ていさんと姑「りせ」さんの二人で経営していました(説明板にある「小川の後家二人」は「てい」と「りせ」のことを指します)。元々が肥後藩の御用達であるため、実際には攘夷志士だけでなく肥後藩士からも慕われていたようです。
新選組に目をつけられていた宿でもあり、小川亭としても新選組対策として宿にからくりを施していて、志士宿泊中に新選組に踏み込まれた際も、からくりを駆使し、隊士の注意を巧みに逸らして志士を外に逃がしていました。
そういうこともあって池田屋事件が起きたときは池田屋の主人同様、姑・りせは逮捕されてしまい、ていは殺された志士の遺体の身元特定に立ち会わされることになります。首実検のため、頭部だけ切り離された宮部さんたちを、宮部さんたちと知って見届けたのが、このていさんなのですね。
実検後、志士の身体はバラバラにされて誰の区別もなく樽に詰め込まれ放置されていたのだといいます。それを見かねて三縁寺に依頼し、埋葬したのも、ていさん。つまり、宮部 鼎蔵や吉田 稔麿ら池田屋殉難志士の最後の最後を見送ったのが、このおていさんなのです。
小川亭は、熊本にとってはとても重要で大切な史跡なのですよ、実は。
度胸と情のこまやかさ、そして頭の良さが前述から滲み出ている小川亭の人々ですが、実はすごい演技力も持ち合わせており、りせさん池田屋後に逮捕されてしまいましたが、取り調べの際、大小便を垂れ流し、言葉にならない言葉を発し、認知症老人のふりをすることでぺろっと釈放されています。逆に釈放して大丈夫なのかってくらいのヤバい演技力ですな!
『義友伝』でも小川亭の人々については書いています。ちょうど池田屋事件と重なる章です。
勝者の裏には、敗者あり。創作小説ですが、興味があればどうぞ。
こちらは『新選組・真の参謀』が開始する前の時間軸で、凸凹三人組こと尾形・島田・山野の出会いについてYが描いてくれたものです。
登場人物は・・・
島田 魁:善意で毒を盛るとんでもねえ奴。新選組の成長と共に自身も横に成長する。
山野 八十八:今回の食わされ役。島田の手料理で幾度となく死にかける昇天系美男子。
あと、本当に一瞬近藤局長と土方副長が出る。
凸凹三人組の出会いは飢えた獣らしく食い物から。
餌づけでみんな、仲良くなれるね!というとても平和なおはなしなので、
興味のあるかたは読んでみてくださいね。