少し間が開きましたな。
その間、リアルが私を待ってくれなかったり、朝陽に置いていかれたり、ネット回線に拒否されたり、二次元と某夢の国にいた2.5次元の思い出を行ったり来たりしていました。嗚呼、私は今何次元にいるのでしょう?(爆)
とりあえず、宇和島旅日記のつづきを書きます。
んんしょっと。
何でもすぐ地図を貼ることを覚えた(爆) 三角形と赤いラインは私が加えました。
三角形の辺は和霊神社・宇和津彦神社・三島神社で結ばれており、かつてはその内側が城下町、その外側が村でした。
ちなみに、左上の住吉町・朝日町・弁天町・栄町港、宇和島城隣の桝形町・文京町・新田町など西の領域は江戸初期には存在せず、宇和島城は二面が海に面していました。
上で述べた3つの神社は、宇和島伊達家にとって特別な意味を持つ神社で、全てが宇和島城より徒歩30分圏内で行けるよう配置されています。
初めてこの三角形が城下町と村の境目になっていることに気づいた時、ほぉ~なかなかこれは面白いと胸躍ったものです。特に、三島神社は同名の神社がゴロゴロあるし、観光神社という訳でもないので、知ることができたのは本当に偶然でした。
本記事では、「宇和島伊達家が愛した神社」と題して、それら三社と宇和島伊達家の関係、またそこから見えてきた城下町と村の関係について触れていきたいと思います。
まず、三社それぞれについて。
北の和霊神社に関しては、まるまる一つ別の記事に上げています。
和霊神社の詳細は、こちら 宇和島旅1日目(1)~和霊神社&牛鬼
北から時計回りにご紹介。東の宇和津彦神社(うわつひこじんじゃ)です。
宇和津彦神社の創建は792年。和霊神社創建の1000年近く前ですね。
この神社は古来から宇和島城下の総鎮守に位置づけられており(地図に書いた赤のラインは戦国以前に城の乱立していた地帯を示しており、現宇和島城にももともと丸串城と呼ばれる城が建っていました。その頃から宇和津彦神社は総鎮守の役割を果たしていたみたいです)、時の政権により幾度かの移転を経て現在地に落ち着きました。現在地には、宇和島伊達家初代である秀宗が移動させたとのこと。
現在地にはもともと愛宕神社という別の神社があったそうですが、宇和津彦神社が移るにあたり合祀という形となり、実質的に消滅します。さすが秀宗、めちゃくちゃなことするぜ。
本殿。宇和津彦神社の参拝方法は、二礼二拍の前に住所と氏名を述べ、祈念後、本殿を一周してから一礼するのですって。なるほど、匿名の神頼みはあかんということですね。
祭神は宇和津彦命、大己貴命(オオナムチ:大国主)、味耜高彦根命(アジシキタカヒコノネ:大国主の子)。
宇和津彦命は景行天皇の子と伝わるそうですが、どのような神かはどうもよくわからない模様。景行天皇の系譜を見ても「宇和津彦」に該当する名は出てきた感じがしませんし、名前などからも地主神なのでしょうね。
ちなみに「宇和島」は「宇和」と「島」が別個であり、宇和島城より北の「板島」、南の「宇和郡(うわのこおり)」の地域が合併して「宇和島」の名になったそう。名づけ親は藤堂 高虎のようです。
お手水に刻まれる左三つ巴の家紋。この家紋は、伊達家入部前にこの地域を支配していた西園寺家のものです。宇和島の統治は伊予橘氏→西園寺氏(藤原家子孫)→伊達氏と変移しています。
うふふ。本殿のおしり。この写真を撮った背後には山の頂上(愛宕山)に続く道があり、この山が闘牛場(天満山)、宇和島城(板島山)に続く私の制覇した山です。
愛宕山の頂上は現在、公園として整備されていて、ブランコやタイヤ跳びなどの遊具の他に
・・・って、怖いわ!!
特に、1階の写真!!一番奥の真っ暗で上の窓からのみ光が差してる場所!!あそこ、昭和の学校のトイレを模した公衆トイレなんですけどっ!?嫌だよ、入りたくないよ私っ!!?尿意なくてもちびるわ!!
そして更に、学校の怪談的な雰囲気を助長するようなモノがこの展望台の向かいに・・・・・・
遙 拝 所 ・ ・ ・ ・ ・ ・ !!
「昭和六年十一月十日 宇和嶋尋常高等小學校職員生徒一同」
戦 前 ・ ・ ・ ・ ・ ・ !!!
いや、別に戦前の建造物やらとご対面することはさして珍しいことではないんですけど・・・・・・
ここ、無邪気な子どもは遊びに来るの?てか、ブランコやタイヤ跳びをするような年頃の子どもが登れる山なの?
全体的に鬱蒼としていることもあって気を抜いたら別の世界の子どもに連れていかれそうな感じなんですが・・・・・・
なんか、時間の止まった空気の漂う公園でした。人によってはノスタルジーに浸れるかもしれません・・・・・・(爆)
展望台からの風景もしっかり撮りました。実際の時系列では、2時間後にはあっちのこんもりとした山の頂上(宇和島城)にいたよ。
三大神社の最後の一社は、西の三島神社(みしまじんじゃ)です。
そもそも「三島神社」は、伊予(愛媛)系か伊豆系、どちらかのルーツを持つ神社のことを言い、伊予系は大山祇神(オオヤマツミ=山海の神)、伊豆系は事代主(コトシロヌシ=大国主の子)を祭神とするのだそうです。なので、全三島神社の約3割が愛媛県にあり、宇和島市だけでも同名の神社が10社以上あるという。
この三島神社は、宇和島にある三島神社の総鎮守という位置づけです。
ついでに、私事ですが、恐らくは私の先祖の氏神さまでもあります。
以前の記事で「先祖は明治に宇和島にいたらしいけど深追いすると変な方向にいったからもう調べない」と呟きましたが、あれから何となく切り口を変えてネットサーフィンしていたら、地名にまんま先祖の痕跡が刻まれていることを知りました。情報社会すげえ。
どうやら先祖は本当に宗城さんとこの子だったみたいです。
(本殿)
祭神は宇和津彦命、大己貴命(オオナムチ:大国主)、味耜高彦根命(アジシキタカヒコノネ:大国主の子)。
宇和津彦命は景行天皇の子と伝わるそうですが、どのような神かはどうもよくわからない模様。景行天皇の系譜を見ても「宇和津彦」に該当する名は出てきた感じがしませんし、名前などからも地主神なのでしょうね。
ちなみに「宇和島」は「宇和」と「島」が別個であり、宇和島城より北の「板島」、南の「宇和郡(うわのこおり)」の地域が合併して「宇和島」の名になったそう。名づけ親は藤堂 高虎のようです。
お手水に刻まれる左三つ巴の家紋。この家紋は、伊達家入部前にこの地域を支配していた西園寺家のものです。宇和島の統治は伊予橘氏→西園寺氏(藤原家子孫)→伊達氏と変移しています。
うふふ。本殿のおしり。この写真を撮った背後には山の頂上(愛宕山)に続く道があり、この山が闘牛場(天満山)、宇和島城(板島山)に続く私の制覇した山です。
愛宕山の頂上は現在、公園として整備されていて、ブランコやタイヤ跳びなどの遊具の他に
(1階)
こ~んな、昭和の学校を再現した展望台がありま~す
特に、1階の写真!!一番奥の真っ暗で上の窓からのみ光が差してる場所!!あそこ、昭和の学校のトイレを模した公衆トイレなんですけどっ!?嫌だよ、入りたくないよ私っ!!?尿意なくてもちびるわ!!
そして更に、学校の怪談的な雰囲気を助長するようなモノがこの展望台の向かいに・・・・・・
遙 拝 所 ・ ・ ・ ・ ・ ・ !!
「昭和六年十一月十日 宇和嶋尋常高等小學校職員生徒一同」
戦 前 ・ ・ ・ ・ ・ ・ !!!
いや、別に戦前の建造物やらとご対面することはさして珍しいことではないんですけど・・・・・・
ここ、無邪気な子どもは遊びに来るの?てか、ブランコやタイヤ跳びをするような年頃の子どもが登れる山なの?
全体的に鬱蒼としていることもあって気を抜いたら別の世界の子どもに連れていかれそうな感じなんですが・・・・・・
なんか、時間の止まった空気の漂う公園でした。人によってはノスタルジーに浸れるかもしれません・・・・・・(爆)
展望台からの風景もしっかり撮りました。実際の時系列では、2時間後にはあっちのこんもりとした山の頂上(宇和島城)にいたよ。
三大神社の最後の一社は、西の三島神社(みしまじんじゃ)です。
この三島神社は、宇和島にある三島神社の総鎮守という位置づけです。
ついでに、私事ですが、恐らくは私の先祖の氏神さまでもあります。
以前の記事で「先祖は明治に宇和島にいたらしいけど深追いすると変な方向にいったからもう調べない」と呟きましたが、あれから何となく切り口を変えてネットサーフィンしていたら、地名にまんま先祖の痕跡が刻まれていることを知りました。情報社会すげえ。
どうやら先祖は本当に宗城さんとこの子だったみたいです。
(本殿)
この三島神社は、806年に大三島(今治市)の大山祇神社より勧請されたようです。中世時代の水軍に興味のあるかたはピンとくるかもしれませんね。恐らくは伊予橘氏によって勧請されたもので、伊予橘氏は大三島を本拠とした越智氏の後裔でもあります。
本来の名は尾串社といい、場所ももう少し南にあったみたい。ですが、1274年の西園寺氏の時代に現在地に移され、以降、伊達氏の世になっても崇敬を集めたのだとか。
先祖が畑を耕していたであろう地域の現在の景色。この地域は、片山 恭一さんの小説『世界の中心で、愛をさけぶ』で出てきた舞台の一つなのですって。それにしても、どこを撮っても宇和島は空がきれいですね。
これら和霊神社を含む三社を伊達家は非常に大切にし、和霊神社では和霊大祭(鎮魂)、宇和津彦神社では八ツ鹿踊り(民俗芸能、後述)、三島神社には馬場を設けて正月行事を行う(御野始め)など、役割を明確に割り振っていた模様。
三社はいずれも城下町ではなく村域に含まれ、また、伊達家が宇和島に定着するにしたがって藩の施設を地図の三角形の外側に広げていったことから、城下町と村の境は徐々に希薄になっていったのだといいます。
城下町周辺の村々(これを当時の行政区画で「御城下組」という)は豊かな土地柄で、城下町の端に住む下手な下士層よりもよほど影響力が強かったらしく、特に和霊神社を擁していた毛山という村は敵に回してはならぬと藩もひやひやしていたよう。幕末には、宗紀・宗城・宗徳三体制や異国との戦いに備えて武器も解禁したことから、腫れ物に触るように領民とは接していたみたいです。
もっとも、御城下組はそれ以前から結構ズカズカ城下町を往来しており、村を藩役人が訪ねてきてもそっけないとかで武士に対する礼儀がなってないと何度か怒られてもいるようで、そのたびに
御城下組「え?でも前々からこんな塩対応だったよね?てかコレが御城下組スタイルだから」
と武士を言い負かし、武士から
武士「そのスタイルやめて!最悪、オレたちのことを眼中に入れなくていいから!殿の顔を立てると思って!せめて、せめて形だけでもちゃんと挨拶して!!」
と、お願いメールをもらっていたそうな。え、先祖・・・・・・

最後に、宇和津彦神社の練り物「八ツ鹿踊り(やつしかおどり)」について語って、締めたいと思います。
八ツ鹿踊りは一般的に、伊達氏の宇和島入部とともに初代藩主・秀宗によってもたらされたと考えられているようです。と、いうのも、この踊りはまさに元伊達氏領である宮城県とその周辺地域にあたる岩手県の伝統芸能・鹿踊(ししおどり)ととてもよく似ているらしい。。。東北では剣舞を組み合わせたカッコいい演舞だそうですが、宇和島では剣は使わず、ゆったりとした調子の女性的な舞踊で非常に優美なのだという・・・あぁ、見てみたかった・・・・・・
宇和津彦神社の八ツ鹿踊りは、毎年10月29日に行われています。
この衣裳の装着方法は、頭に鹿の飾りを被って、後は全身を布で隠す至ってシンプルなもの。
なんかダンソン言う人にニーブラされそうに見えるのは私だけですかね・・・
宇和津彦神社によると、この踊りは7頭の牡鹿が1頭の雌鹿を見つけて喜ぶ「めじしかくし」という鹿たちの青春を象徴しており、宮城県も同じ伝承なのだとのこと。後に支藩となった伊予吉田藩にも伝えられ、伊予吉田では本藩に遠慮して鹿の数を減らした「五ツ鹿・七ツ鹿」となっています。
この写真は伊予吉田で撮ったものだから、7頭しかいないんですね。
と、いうことで、2日間でしたがとても濃密な時間を過ごしました。
3日目は宇和島を離れ、
内子町へ!宇和島はこれでしまいですが、せっかくですからこの後の旅についての記事も書いてみようと思います。
地域活性化、なぁれっ(爆)
