休日とはいえ、目覚めたら 約30時間後の世界 になっていました。まじありえん・・・
宇和島旅の続きです。
思えばあの旅、結構ハードなスケジュールでした。
一人旅になるとどうしてもハードになりがちなんですけど、誰かと一緒に行く旅よりもかなりラクに動けるんですよね。
どうも、「行き先を絞る」という判断が私にとっては無闇やたらな移動よりよほどストレスなようです。
サバイバル場面で真っ先に死ぬあかんやつや(笑)
2日目の旅程で最も早く開く施設は天赦園。8:30からやってます。
天赦園は、第7代藩主・伊達 宗紀(むねただ、宗城の父)が隠居後の住まいとした庭園。
庭園そのものは2代藩主の頃からあったそうですが、慶応2(1866)年に宗紀の手によって改造されています。
改造された理由は・・・わかるな?(爆)
いやたぶんわかんないと思う・・・私わかんなかったし・・・・・・(爆)
これを知るには当時の宇和島藩政を少し齧らなければならないのですが、宇和島伊達400年祭だというのに、ここ天赦園ではもちろん、伊達博物館でも、宇和島城内の郷土館でも、殆ど説明がなされていないっっっ!!私が知ったのは神奈川の図書館ででも借りられる『シリーズ藩物語 宇和島藩』でですよ!!あの・・・もう少しリスペクトしてもよくない?
幕末時の宇和島藩の藩政は、印象としては薩長土肥の肥前佐賀藩に近い感じ。実際、歴代藩主は佐賀藩から正室を迎えているようなので、気のせいとも言えないのではと思います。ただ、二重鎖国状態だったとかではなくて、自藩の者を政治思想に関わらせなかったという意味でです。
宇和島藩が薩長土肥の仲間入りができなかった理由に、藩士が血を流していないからという説があります。明治新政府の主権を握る条件に、「国力」「人材」そして「犠牲(功労ですね)」を程よく持っているのが理想でした。宇和島藩は「国力」と「犠牲」に欠けていた。
しかし、たぶん宗城らが賢候と言われる所以はここで、宇和島藩は10万石というもともと「国力」の大きい藩ではなく、「犠牲」まで出してしまえば「人材」が不足してしまい、この先立ち行かなくなることを自覚していたのでしょう。始めから「人材」を輩出することにのみ焦点を当て、実際、多様な人材を明治政府に送っています。その「多様な人材」の方が、宇和島城内郷土館で紹介されていました。
潜渕館。これはもともと明心楼という名の建物の附属茶室でした(明心楼は現存せず)。明心楼に宗紀が住み、西郷 隆盛、大村 益次郎らを招いて会談をしたとのこと。
宗城ではない・・・少し見えてきたでしょうか?
独裁政治というのはよほどカリスマ性がないとできないもので、その点でも『肥前の妖怪』鍋島閑叟には敵いませんでした。なので、どうするかというと、7代・宗紀、8代・宗城、9代・宗徳(むねえ)の3人が協力し合って藩政を行うのです。宗城はその中でも他藩人との外交を担当していたので有名になり、「四賢候」の一人として教科書に載ることになりますが、宇和島の視点で見れば宗城一人が賢君なのではなく、三代あっての無血御一新なのですね。
宗紀は宗城・宗徳の背後に立ち、国事全般を取り扱ったのだといいます。
でも、三代が同時に政治に関わるとあって、本来は藩主とその正室を養う分だけ領民から取り立てればいいものの、宇和島藩の場合それを×3取り立てる必要があり、領民は苦しい生活を強いられたようです。ならば今度は一揆が・・・と思いそうなものですが、そこはやはりちゃんとフォローした模様。そちらについては、宇和津彦神社のあたりで詳しく触れたいと思います。
とりあえず、庭園を見よう!
花菖蒲は9代・宗徳のお気に入りで岡山・佐賀・熊本の藩邸から移植したもの、
竹は7代・宗紀のお気に入りで伊達家の家紋「竹に雀」にちなんでいます。
そういえば、伊達家の家紋ですが、 主にこんなものがあるそうですね。左が「竹に雀」。真ん中の九曜紋は、ええ、熊本藩領のわたくしとしましては細川家の家紋であると理解しております。まぁ、似たような家紋を持つ家はそれなりにありますけんね・・・
が、知っている人は知っているらしいのですが、この伊達家の九曜、本当に伊達 政宗が細川からかっぱらってきたんですってね。
細川(忠興だよも~・・・)自身、九曜紋は織田あたりからもらってきたみたいなんですけども、それを見た政宗が
政宗「Hey!いい家紋持ってるじゃねぇか!くれよ!!」
と、手を出したのだとか。てめえはジャイアンか!!
上の3つ+5つの8つを持っており、今後も記録を破られることはないでしょう。
あれからちらほら調べてみると、政宗と忠興のクレイジーエピソードがゴロゴロ出てきました。(例えば、二人とも国宝級の朝鮮の書物に一目惚れして文字通り半分こにして持ち帰ったとか) 何をしたかったんだお前ら・・・・・・
1747年に肥後細川家が改易の危機に見舞われた際、その危機を救ったのが仙台伊達家の藩主だったり
(家紋の見間違いによって藩主が殺害された事件で、以降細川家は家紋を“離れ”九曜に変えている)、
なんだかんだで260余年良好な関係を続けていたようです。
肥後藩も戊辰期は内政めちゃめちゃで、伊達家や津軽家を助けようとしているかと思えば箱館に攻撃を仕掛けていたりと行動に一貫性がないですが、伊達家や津軽家を助けようとしていたのはよしくにさんの方ですね。(後者はたぶん、関係が決裂した弟の方です)
私、世渡り上手といわれる細川家の歴代藩主の中でよしくにさんは世渡りベタな方だと思うんだ・・・・・・

と、いい加減話を戻してとりあえず城見ようか!!
宇和島城。現存天守なのでこれそのものに価値がありますね。
天守の最上階より望む。
宇和島城はもともと海城で、幕末になってようやく堀といえるほどに周囲を埋め立てられました。現在は市役所や歴史資料館、観光情報センターが西にずっと続いていますが、当時は海で、埋め立て工事の全行程が終了したのはなんと平成に入ってからとのこと。あすこはまだ20年ちょっとしか陸地じゃないんですぜ・・・
井戸丸。3つ現存する井戸の一つで、最も重要視されたもの。
こういう道が続く。近いけど急、遠回りだけど緩やかなルートの二択が用意されています(笑)
こちらは近いけど急な道。
上り立ち門!こちらも江戸時代から現存する門です。
なんだか城から下りてきたような感じになっちゃったな(笑)
最後に、
大村 益次郎住居跡と
高野 長英隠れ家跡。
大村 益次郎住居跡は住宅地の中に、高野 長英隠れ家跡は商店街の裏にあります。
両者とも、蘭学を極めし者たちで、宗城が大切にした人たち。大村 益次郎は長州藩にまだ才を見出されていない頃から招聘し、また高野 長英は当時お尋ね者だったのを匿ったといいますから、宗城がいかに先見の明があり放胆だったかがわかりますね。
だから、宇和島市民はもう少し伊達家推ししてもいいのよ?(´・ω・`)
と、いう訳で、伊達と幕末ときどき細川(爆)でした。
次回は和霊神社と並んで伊達家が崇敬した三大神社の残り・宇和津彦神社と三島神社、郷土芸能『八ツ鹿踊り』について書きたいと思います
