松田についてはまる | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

小説の方がようやっと八月十八日の政変や天誅組の変に差し迫ってきて、寝る間も惜しいでうくです。ここまでくると、資料を頑張って集めなくても転がっているのでそこだけが救いかも。

本ブログでもなかなかな数の幕末熊本人を取り上げてきて、小説ではそれ以上の熊本人が出て、その殆どが肥後勤皇党
の人たちですが、本ブログでも既出の肥後勤皇党員で、「この人はなんか他の勤皇党の人と毛色が違うな」と思っている人がいます。



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松田 重助 です。

そうそう!
池田屋事件で新選組にやられる肥後浪士その2 でござぁます!
恐らく名前だけは妙に有名なんじゃないかな・・・


池田屋で斬られる側というのは、「新選組はこれだけすごい奴を倒したんだぞ!」っていう意味で、逸材
といわれることが多いですが、「えっこの人たちはどうすごいわけ!?」 というのがぶっちゃけ正直なところの私の感情でした。
多分そんなに知る人もいない・・・興味がある人もそんなに・・・・・・(爆)


ですが、調べてみるとこの人は奥が深い。

松田は実は宮部さんより尊攘活動に早く携わっているんですよね。なおかつ、きちんと国に対する意図を持っている。この人は、年若い割に肥後勤皇党の思想にも松陰の思想にもそれほど染まっていないんですよ。かなり早い段階から思想の基礎を学び、早々に脱藩しているためか(詳しくはこちら)、肥後の風土がもつ宗教的なクレイジーさや松陰のクレイジーさの影響をあまり受けていないんですよね。宮部さんに宗教主義的な一面は見られませんが、それでも松陰のクレイジーさに惹かれてけっこう無謀なことをやらかしている一方で、松田にそういった面は見られない。洗練されているというのかしら?

「少し変わった」肥後の尊攘志士にしては(実際他藩の志士からは変わった目で見られていたみたいです)、 最も標準の志士に近い 印象を受けました。そういった点で、
「この人実は場合によっちゃ宮部さんよりすごいんじゃ?」と思い始めております。
この人が生き残っていたら、熊本はもうちょっとマシになっていたのかもしれないと思う。



実は同じく初期から活動していた志士で、松田と似たタイプの人がいるんですよ。
それが桂 小五郎です。彼も松陰の影響を直接的には受けず、思想などにあまり被れない人でしたよね。
こういう人たちって、国そのものを冷徹に見つめていて、友がどうとか、思想、信念がどうのというある意味余計なものを一切排して考えている気がするんですよね。「私情を排す」というのでしょうか。



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(脈絡もなく宮部さん)


一方で、松田は名前が有名な割に資料が少なく、でもその資料の少なさの割には人情エピソードが結構ありまして。(なんのこっちゃ!)


桂さんと仲良しだったんですけど、桂さんが藩の重役でない頃はともに いろいろ企み、

(桂さんって長州志士の保護者役とか、穏健派とか、場合によっては臆病だとか「逃げの小五郎」だったりのイメージが強いと思うんですけど(新春のヒストリアの長州特集を観ましたが、桂さんの扱いがすごかった・・・汗顔)、長州藩が組織的でなく志士の個人プレーで動いていた頃は結構いろいろやってたっぽいです。久坂さんが台頭したあたりから徐々に手を引いていった感じ)

桂さんが藩の重役となってからは 長州藩に積極的に金をせがむ という、 剽悍な(というかがめつい・・・) エピソードがあったり(き、きっと長い付き合いだったから・・・)


脱藩の前夜には永鳥さんと二人で別れの酒を飲み交わしたり、


1861年の清河 八郎来熊の際には、島津の挙兵が真実であるかを確かめるために宮部さんと松田の弟である山田 十郎(のちの信道。維新後に官僚となる)が鹿児島に偵察に行ったのですが、


松田「オレも行ってくる!」

宮部らの後を追って鹿児島に行き、案の定薩摩に入国できない二人を発見します。
薩摩は“秘密の国”と言われるくらいとにかく入国が難しくて、隣国である肥後もそうだったんですね。なので、海路で密入国しようとしたんですけど、船頭が途中で嫌がって二人は立ち往生していたのです。


松田は
船頭の首に短刀を突きつけ

松田「薩摩に連れて行け。さもなくば・・・」


脅して薩摩入国を取りつけたそうです。
いやぁ浪士が板に付いてますね松田さん!

振舞いがもうなんというか立派な犯罪者ですが、旅慣れしていない宮部さんたちを心配しての行動だったらしいです。一応人情話ですね!(爆)



あと、この人は何かと弟・山田 十郎との兄弟愛を思わせるエピソードが多く、前述の薩摩偵察についても
松田「えっ。十郎が行ったの・・・?」
で追いかけていったらしいですし、けっこう日頃から

松田「脱藩?やめときなさいそんなもの!いいか、大人しく肥後に帰るんだぞ!」

松田「これは危険な仕事じゃないか!兄さんがやるから、お前は家に帰りなさい!」


と、どうも 兄馬鹿 の要素があった模様。
更に、彼らは互いに弱音を吐き合える仲良し兄弟だったようで、

松田「また計画失敗した・・・皆に合わせる顔がない・・・いっそ当てつけに藩主邸の前で腹を切ってやろうか・・・」
山田「ま、待って!ニーサン!次はきっとうまくいくよ!」
松田「そうかな・・・・・・?」
山田「そうだよ!それに、
ニーサンが腹を切るくらいなら僕が腹を切るよ!」
松田「(なんで!?)それはダメだ!お前が切るならオレが切る!!」

山田「僕が!」

松田「オレが!」

山田「僕が!!」

松田「オレがっ!!」

永鳥「両方でもいいよ・・・?重助、お前また失敗したね・・・?」

と、いうやりとりを何度もしたそうです(永鳥さんのは私の想像です)
というか永鳥さん、松陰の密航に賛成しておきながら、松陰が密航に失敗して帰ってくると、
「あははっ、お前の計画、また失敗したね」
と笑ったそうなんですよね。恐ろしい野郎だぜ・・・・・・



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(脈絡もなく彦斎)


松田は全く誰にも心酔していないのかというと、そうではないらしく。
彼にとっての重要人物は、どうやら梅田 雲浜らしいです。
ただあたし、梅田 雲浜のこと全っ然わからないんですけど(爆)雲浜の直弟子はあの古高 俊太郎とのこと。

雲浜とのエピソードもまた人情味に溢れていまして。

松田は早々に脱藩したため、人生の3分の1くらいは
逃亡してますが、彼を手厚く保護してくれたのが雲浜先生なんですって。彼らが出会ったことは知っていましたが、まさかそこまで縁のある方だとは思いませんでした。まぁ、永鳥と雲浜が知り合いなので(大ボラ吹いた後の話なので)、恐らく永鳥の手引きでしょうが。

梅田 雲浜には千代という妻がいたのですが、千代を雲浜に紹介したのが松田で、二人の婚儀の際に媒酌人をしています。かわいがられてたんですねぇ、松田。

その後、雲浜は安政の大獄によって処刑されてしまうのですが、雲浜がかねてより熱心に取り組んでいたことがありました。それが「御親兵構想」。これは文久2~3年に「京都御親兵」として実現します。その立役者が実は松田なんです。雲浜の遺志を継いで実現させたのですね。
更に、師を喪い、自身も追われる身になっていた古高 俊太郎を今度は自分が匿い、身を隠す場所を提供します。それが「枡屋」なんです。枡屋は実は肥後藩と縁が深い家で、灯台下暗しでもってこいの場所でした。古高の変名の「湯浅 喜右衛門」も肥後に関係する人の名を借りたものなのですよ。



と、いう訳で、何を語るにも血の通っている最近の私の推しメン、松田の話でした。

最後に、遂に始まりましたね!『花燃ゆ』!!
松田は
松陰の友人でもあったので!!『花燃ゆ』の出演も期待できるので!!もし出ていたら少ーしばかり気にしてくださると嬉しいです。この記事が、大河の予習になっていたらこれ幸い。