佐久間 象山暗殺といえば、恐らく彦斎が幕末史に浮上するターニングポイントであると同時に彦斎最大の過ちというこれまた矛盾に満ちており、彦斎の人物像を更にややこしくしていますが、そこもまた紐解いてみましょう。てか、推測も少し入ります。
「彦斎は、何故象山を殺したのか?」
彦斎が象山を殺した理由については、衝動的だった、という理由が現在では一般的なようです。そして私も、その理由が一番しっくりくるのではないかと思います。
しかし、この終わり方では納得はできませんよね。現代でも殺人なんてだいたい衝動的だったりまともな精神状態じゃないんでしょうけど、そんな理由で殺されてはたまらないって思うのもまた人情ですよね。
彦斎自身が象山を殺したことを後悔していたようなので、結局は衝動的だったのでしょうけど、そうなると彦斎を人斬りに変えたのは池田屋事件であり新選組ってことになりますよね。うわぁ、なんという因縁。そして、こう書くとなんかカッコイイな

それだけ、彦斎にとって宮部 鼎蔵という人が重要な人だったということですが、それもそのはず、恐らく、彦斎は吉田 松陰が松下村塾を、宮部が肥後勤皇党を志士集団に育て上げると誓いあってすぐの門人です。相当叩き込まれたことでしょう。そして、この宮部による教育がまた、彦斎を更に矛盾に満ちた人物にしていくのです。今回は、宮部の思想を受け継ぐ彦斎の“友”に対する想いを軸に、佐久間 象山暗殺、明治政府への反発、そして、斬首について語ってみたいと思います。
“友”の教育
吉田 松陰と宮部 鼎蔵が親友だった、というのはどこででも書いてて私自身が飽き飽きですが、これがすべての出発点なのでもいっかいだけ書きます(爆) 同志ではなく友だった、というところが最も大切です。
もともと吉田 松陰は、宮部だけでなく横井 小楠、永鳥 三平、松田 重助、佐々 淳二郎など、肥後人の友人が多くいました。松陰は彼ら、つまり友達と尊皇攘夷運動をしようとしていたのです。どの流行に関してもだいたいそうだと思うんですけど、始まりってそんなもんなんですよね。あくまで最初は内輪なんです。まだ志士なんて言葉が生まれていなかった頃です。
それが“志士”、また“同志”と昇華されるのは、きっと安政の大獄前後でしょう。この頃は、互いを“友”として見ていて、松陰と宮部は “友の契り” を交わしています。
ちなみに言いますと、肥後の尊攘志士たちは不思議なくらい“同志”という言葉を使わないのですね。“友”と言うのです。どうもこれは、宮部がこの“友の契り”を基に志士教育をしていったからのようで、 “友のために” “友を守る” を行動原理としていたとみると非常にしっくりきます。“国のため”ではないのですね。視野が狭いかもしれませんが、これは、太平洋戦争で兵士が“皇国のために”ではなく“お母さんを想って”死んでいった感覚に近いと思っていただくとわかりやすいかと思います。
肥後の志士は“守る”ために戦いに身を投じていったと考えられる面が多くあり(保守的な肥後人らしいです)、また、そのためにはいくらでも攻撃的になります。同時に、守るべきものを失うと捨て鉢になるのも特徴で、友ではないにしろ宮部がいなければ志士になっていなかった彦斎が宮部を失い、捨て鉢になっていた可能性は大いにあります。もっとも、捨て鉢になっていたのは彦斎だけではなく、八月十八日の政変で多くの友が捕まり、傷心となっていた肥後の志士全員がそうで、禁門の変では宮部の後を追うように自ら突っ込み、ほぼ全員戦死しています。明治9年の神風連の乱も、彦斎斬首の仇討ちや後追いの面が色濃くあります(彦斎斬首から5年経っての決起には「宇気比」が関係していますが、それは後述)。彦斎の場合も、白昼堂々の暗殺ですので、捨て鉢に突っ込んでいってたまたま生き残ったという見方もできなくはないと思います。
象山の暗殺 に戻りますが、まぁ捨て鉢だったのは結局 衝動的殺人だったと何ら変わらないので、彦斎の背を押した要素として考えられるものを挙げてみますと(なんか犯罪心理学者になった気分です)、まず、象山がパッと見開国感バリバリ出してた (これも衝動的に殺すには十分な理由ですね)、池田屋を襲撃するよう新選組に指示したのは象山であるというデマを鵜呑みにした、というところでしょうか。
肥後勤皇党は、禁門の変や神風連の乱のケースのように、若干仇討ちを認めている節があります。彦斎とは逆に、横井 小楠の暗殺に失敗した堤 松左衛門という人がいますが(厳密には仇ではありませんが)、この人は暗殺に失敗したので切腹しています。このように、割と厳密な作法というものもあり、決起や殺人の有無は「宇気比」(うけい)によって決定します。
肥後勤皇党には宗教集団的要素がある、というのは松田の記事でも述べましたが、この「宇気比」が肥後勤皇党を宗教集団たらしめるもので、実は、暗殺したいからといってそう簡単に暗殺できないような仕組みになっているのですね。感情のままに、或いは感情に理屈をつけて自分の思うままに殺してしまわないようにするのが「宇気比」の役目です。これは段階がいくつもあって、すべての選択を天命(つまりは、運)に委ねるというものですが、信仰熱心な彦斎は必ずこれで私情を排してから殺人を行っていたといい、象山暗殺の場合は宇気比の条件をすべてクリアしてしまった可能性があります。「宇気比」の前に暗殺の意義について熟考するそうですが、その時間はどうも取れなかったみたいですね。
この時は 誰が象山を殺すか、志士の間で競争があったという説もあり、誰かに殺されるくらいなら自分が仇を討ってやる、と思ったのかもしれません。共犯者がいた以上、全く衝動的と考えるのも微妙ではあるので、私の中で一番しっくりくる理由は、デマに踊らされ、熟考する時間も取れず急き立てられるままに仇討ちをした、でしょうか。だから斬った後に後悔したのかもしれません。
象山の暗殺がポピュラーな割に文字を割いてしまったのでこれも重くなりそうですが、次は「何故明治政府に反発したのか?そして、何故斬首されるようなことをしたのか」について考えてみたいと思います。
「強硬な攘夷論者だったから」というのはまぁそうで、じゃあなんで?という話をしたいのですが、これにも宮部による“友”の教育が影響しているのではないかと思います。
彦斎は確かに石頭は石頭ですが、頭の悪い石頭ではないと思います(笑)
明治初期、彼は大分県鶴崎(肥後藩領)の「有終館」という兵学校の隊長を務めていますが、教え子から「よし、じゃあ外国ぶっ飛ばしちまいましょう!」と言われた時に、首を横に振り
彦斎 「いや、それはもう難しいだろう。外国との交流はもはや避けられない。ロシアとは、今のうちに対等な交流をしておくべきかもしれない」
と、言ったそうです。ここでもまた矛盾!?と思われるかもしれませんが、彦斎はそろそろ、教え子たちに現実というものを見せながら教育を始めていました。「自分はこう生きる、けれども、君たちは自分で考えて進め」と。
自分が時代遅れな人間だってことは、とっくにわかっていたんですよね。彼は開国政策を進める木戸 孝允や三条 実美をなじったといいますが、開国政策そのものの文句というよりは
彦斎 「志半ばで死んでいった友の魂はどうなる!」
だったようです。
ここが彦斎の悲しいところで、あくまで友なんです。とうてい政治家向きではなく、本人も仕官は断りましたが、木戸たちとは考えの次元が違うのです。「あくまで攘夷だった」というのも、攘夷を掲げて死んでいった友たちの魂のため、明治の攘夷活動も友の供養みたいなものです。彦斎の場合、幕末期にともに活動した同郷の志士はみんな死んでいるので、切実だったと思います。
一方で、長州の志士は違います。吉田 松陰が早逝したことや松下村塾出身ではない木戸らが中心になったこともあり、“友”という言葉は使われなくなり“同志”という言葉へ変容していったようです。つまり、松陰と宮部のした“友の契り”は、もう生きていないのです。
この認識の差が悲劇を生みます。木戸 孝允と袂を別った大楽 源太郎が反乱を起こし、彦斎の元へ逃げてきます。袂を別ったということは木戸と大楽はもはや同志ではなく、またそれ以外に絆はない訳ですから、木戸は大楽に対して冷酷になれます。しかし、彦斎は大楽を友として見ている訳ですから、彼が殺されるのなら無視などできません。彦斎と大楽は、似ていても、実はもう同じ志ではありません。彦斎はこの時、大楽から決起を促され、決起しなければ兵だけでも貸して欲しいと頼まれるのですが、肥後藩への忠誠心から両方とも拒否しています。彼はこの時にはもう、一藩士、一県民として熊本で生きることを決めていました。でも、志が途中で変わっても、世界が敵に回っても、助けるのが友なのです。
結局、彦斎は大楽隠匿の罪で逮捕され、反乱分子として処刑されます。しかし彼にしてみれば、困っている友人を助けただけでした。有終館の兵を本当に尊皇攘夷に染め上げる気があったのかも微妙です。彦斎は最期、教え子や勤皇党(この時はもう、神風連)に向けてこう言っています。
彦斎 「鍋のつるは弧を描くよう曲げてこそ使えるものなのに、僕はそれをわざとまっすぐにしていた。君たちは、僕の真似を決してなさらないよう」
彦斎の行動の矛盾、それは、むしろ逆にどこまでも一貫した友情と忠誠の裏返しなのかもしれません。
