もう少し、お付き合いくださいませ。
本日は、この人。
宮部 鼎蔵 (みやべ・ていぞう)
・・・と、いいたいところですが、実質こっちです。
!? (キャ、キャラクターが出来上がっていない・・・)
宮部さんは頑固一徹大まじめ、そして少し複雑なところのある人物だったそうで、ボケとツッコミでいえば完全にツッコミタイプに分類されるでしょうね。
さてボケはボケ一人でいても見ているこっちがツッコめるので面白いですが、ツッコミは一人にしとくとクソつまらないです!(そこまで!?)
と、いうことで、今回はごくごく常識的な熊本人だった宮部さん、ひいては肥後人、そして肥後藩そのものがある男に振り回される話をしたいと思います。
嘉永3年(1850年)、ある男が九州の地に降り立ちます。
吉田 松陰 です。
吉田 松陰と宮部さんは親友同士であったことで有名で(私は知らなかったけれども!)、1852年の東北旅行の際、松陰は、宮部と約束した期日に遅れるという理由で脱藩し、結果自身は投獄、松陰の駄々に根負けしてしまった来原 良蔵は有罪、宮部自身も長州藩や幕府に呼び出され、取調べを受ける という散々な目に遭っています。ちなみに宮部さん、松陰関連のことで 人生で何回か取調べを受けているのですね。こんなこと、現代では友達が実は暴力団員だったくらいでしかありえませんよ!
しかし、そんな困ったことなんてこの時初めてだった訳ではありません。最初からなんです。
松陰が九州へ来た目的については、ちょっと具体的なことはわかりません。山口県は福岡県・島根県と並び、最も朝鮮半島に近い県で、萩はしかも日本海沿いにあるので、外国に対する危機感はペリー来航前より高かったと聞きます。なので、西洋兵学を学ぶ目的だったとするものもありますが、その割に、松陰はこんなことを思っていたそう。
松陰 (今の長州藩のレベルでは、水戸藩、尾張藩、肥後藩と肩を並べる訳にはいかない・・・彼らと同盟を結びたい)
何の?
さすがクレイジーの代名詞、何を考えているかさっぱり読めません。
しかし、これを少しまじめに考察してみますと、上記三藩にあった特徴として、藩政改革に成功している、全体的な教育水準が高い、などがあります。
松陰は教育の重要性を唱えた人でもありまして、また、この時には既に藩の役人である身で(教授ですが)、改革を望む人でもありました。なので、もしかするともともとは藩政改革や教育について学びに来たのかもしれません。
とにもかくにも、この九州遊学を境に肥後は松陰から熱烈アプローチを受けることになるのです。
そのきっかけが宮部さんといってもいいくらいです。
そんな宮部さんと松陰先生、もともとこの九州遊学で会う予定はありませんでした。松陰先生が山鹿流軍学を学んでいるということで、同じく山鹿流軍学の師範をやっていた宮部さんを紹介されたのです。とつげき隣の晩ごはんした松陰を宮部さんは温かく迎え、話が意気投合したこともあり田舎に泊まろう的展開になります。つまり、単純に泊まっていきます。
そして宮部さんは、横井 小楠を松陰先生に紹介します。宮部さんと小楠の関係がまた複雑なものになるのですが、この頃はペリー来航前、宮部さんも小楠先生も攘夷派でした。小楠を紹介されたことで、松陰の 『宮部好き』 は 『肥後人好き』 に発展していったようで、
松陰 「宮部兄、横井兄」
と、大変慕ったそうです。
一方、宮部さんもそんな才子ながらも無邪気な松陰を弟みたいな、また“友”としての感情を抱くようになり、小楠もまた松陰の才を見抜き一目置きます。松陰に振り回される人生の始まりです。
とりあえず松陰先生は ロシア船に密航しようと思い立ちます(1853年)。ロシア船は長崎に寄港していたので、松陰は九州のあるところに機を見るため滞在させてもらいます。
宮部 鼎蔵の家です。
宮部は松陰の計画を聞いて愕然とします。きっと止めもしたんでしょう。
しかし、しょせん言っても聞かない男です。宮部は松陰に協力し、しばらく家に泊めてあげます。そして、その滞在期間中にも二人の議論には熱が入ります。朝も、昼も、夕も、夜も、幾日も、語り続けるうちに、宮部はふとこう思ったに違いありません。
宮部 (いつまでこの男はここにいるつもりなんだろう・・・?)
宮部がそう思っているに違いない頃、ロシア船は予定を繰り上げたこともあって長崎の港を離れ―――・・・
二泊の予定が宮部の家に六泊した松陰が長崎に着いた頃には、ロシア船の姿は影も形もありませんでした・・・
延長日数の方が長くね!?
しかし、転んでもただでは起きないこの男、なぜか萩ではなく 肥後の宮部の元に戻ってきます。驚く宮部に、松陰はこう言うのです。
松陰 「宮部兄、肥後藩の家老に会わせてもらえませんか」
宮部 「!?」
家老、ログイン。
なぜ家老かというと、恐らくは肥後藩家老が代々尊皇攘夷寄りということが関係しているのでしょう。そう、肥後は藩の中枢にも尊攘意識を持つ人がいたのです。
急なお願いにも関わらず、宮部は家老に会ってもらえるよう取りつけます。そして家老は、会ってあげるのです。
家老の立場って、存外に緩いのかもしれませんね。
家老との対談を果たした後、松陰は宮部に言います。
松陰 「宮部兄、僕は萩に帰ります」
宮部 「・・・そうか」
松陰 「宮部兄も来てもらえませんか?」
宮部 「・・・え?」
松陰 「これから一緒に、萩に来てもらえませんか?」
宮部 「!?」
宮部 「・・・・・・今?たった今?」
松陰 「はい。たった今からです」
宮部はさすがに たった今から 肥後を出ることは難しかったようで、数日間の猶予をもらっています。
その間、松陰は横井 小楠の元に行き、小楠にこう聞きます。
松陰 「そういえば横井兄、近く肥後を出る予定はありませんか?」
小楠 「そーねぇ。近く藩命で、江戸に行くことになってるけど」
松陰 「じゃあ、その途中で萩に来てください。藩の要人に会わせますから。待っていますよ」
小楠 「!?」
松陰の目的は肥後と長州の藩どうしの結びつきにあったようです。あまりにぶっとんでいるので、ここで断言しておきますが、この記事に書いていることは私の創作じゃないですよ!
さて、当然こういう展開になる訳です。
松陰 「宮部兄、これから長州藩の要人に会ってください」
宮部 「!?」
この時、宮部は長井 雅楽(ながい・うた)、来原 良蔵など文字通り長州藩の要人に会っています。これを境にかはわかりませんが、宮部さんは長州藩からの依頼を受けたり、長州藩邸への出入りがある程度自由になるなど、長州藩に信頼されていきます。そして、松陰が罪を犯して投獄されるようなことがあると、
来原 「松陰が己の罪を恥じて切腹するかもしれん。来てくれ!」
宮部 「!?」
と、松陰関連で呼び出されることになる訳ですね。
さて、今度は松陰、ペリー艦隊に密航しようとします(1854年)。この時も宮部は松陰の相談を受けます。死を予期した宮部はロシア船の時とは打って変わって、なんとしても行かせまいとします。しかし、
クレイジー永鳥がこう言うもんだから、同種であるクレイジー松陰は密航計画を実行に移します。味方の中に敵がいたショックを隠せない一同は、泣く泣く松陰を見送りに行きます。
一同はこの時、松陰に餞別を贈っています。宮部は家宝である大刀と、なぜか藤崎八旙宮の神鏡を贈っています。藤崎八旙宮は、 熊本県民で知らぬ者はいないと言っていいほど有名な神社で、現在でも正月や馬追いの際には人が入りきれないくらいの活気を見せます。なんてもの渡しちゃってんのあんた!!
まぁ、結局松陰は逮捕され、萩の野山獄へ繋がれることになるのですが、この頃、宮部の身に異変が起こります。ペリー来航後、肥後の地はひどく荒れていました。すなわち、攘夷か開国か、或いは幕府にすべてを委ねるかで争いが起こっていたのです。ここで横井 小楠が開国を唱え、宮部と小楠の仲は決裂します。ここまではいいのですが、宮部と小楠の弟子たちが黙っていません。特に宮部の弟子たちは小楠の暗殺まで計画するようになってしまい、小楠はこの時から死ぬまで、暗殺の影に怯え続けることになります。
その幕開けといっていいのが今回の異変で、宮部と小楠の弟子が暴力事件を起こし、宮部はその責任を追及され 藩の兵学師範を解任、隠居 させられます(水前寺事件)。藩政にこれから乗り出そうとしていた宮部には相当な痛手だったでしょう。
松陰は投獄、宮部は隠居。ともに志士活動を存分に行えない立場になってしまいますが、松陰は後進の指導に当たると言います。すなわち志士の育成。同志を増やし、活動の規模を大きくすること。これが、松下村塾です。
宮部も、来るべき時のために志士の育成に力を入れると松陰に言います。これが後に肥後勤皇党に発展します。この頃河上 彦斎が宮部の教えを受けるようになり、また久坂 玄瑞が宮部を訪ねてくるのですね。