新選組の諸藩との衝突は(長州藩はみんなの敵だったので置いておいて…笑)、池田屋事件や明保野亭事件で藩士に死傷者を出している土佐藩が有名かと思われます。
肥後も、池田屋事件で宮部 鼎蔵や松田 重助が新選組と衝突して闘死したり、佐久間 象山暗殺の犯人である河上 彦斎への仇討ちのために、象山の息子である三浦 啓之助が入隊したりと、新選組との接点はいくつかありました。ただ、彼らは脱藩浪士なので、肥後藩と衝突した訳ではなくあくまで尊攘過激派の取り締まり上での接点でした(なので、彼らが捕らえられても土佐のケースと同様、肥後藩も別に支障はなかったと思われる)。
そもそも肥後藩は佐幕(時習館党・藩役人が中心)が支配的で、彼らは集団であったため、攘夷派である宮部(勤皇党)や開国派である横井 小楠(実学党)のように個人の名が有名になることはありませんでした(その必要もないしね)。幕府は当時は朝敵ではなかったし力もまだそれなりにあったので、淡々とこれまで通りの仕事をすればいいし、おとなしくしてるよね、そりゃ。
と、思いきや、佐幕派もぜんぜんおとなしくしていませんでした。
佐幕派(肥後藩)も新選組と大いに衝突しており、しかもそれは常日頃からというのがわかってきました。
新選組の壬生屯所と肥後藩邸が近い距離にあったのはよく知られていて、ぶっちゃけ同じ佐幕派でもきっと仲は良くなかっただろうな…と想像はしていましたが(想像できるあたりがやはり自分も肥後人だなと思いますが)、お互いに非常に鼻につく存在だったようです。
しかも土佐の明保野亭事件とは比較にならないくだらない理由でいがみ合っています。( 酔っ払いが迷い込んできた とかそういうレベルです…)
一度、新選組と肥後藩が武力衝突寸前まで発展した事件があり、その原因もまた 酔っ払いが道を譲らなかったから でした。
この時の酔っ払いは肥後藩士の方で、道を譲らなかったうえに新選組隊士に刀の鞘先をぶつけてしまったので、新選組に捕縛されてしまいます。
そのような新選組の仕打ちに肥後藩が激おこになり、
藩士数百人が西本願寺屯所を取り囲み、
(新選組が壬生から西本願寺に屯所を移した後の出来事です)
屯所に向かって大砲をぶっ放そうとします。
「なんてことしやがる!!(((゜д゜;)))」 (土方)
結局、肥後藩も新選組も意地っ張りなので互いに一歩も引かず、
困り果てた西本願寺の門主が朝廷に助けを求め、
朝廷が
「うぬら!そんなくだらんことで戦闘するならどっちも朝敵じゃ!」
と 一喝したことで 事無きを得ます。
……くだらない。実にくだらない。
このように、新選組は肥後の佐幕派とも攘夷志士とも接点が多くしかも衝突していて、肥後人に対してはお前ら結局どっちの味方じゃという印象を抱いていたんじゃないかというような気がします。
それどころか
「何考えてんのかわかんねぇし何やらかすのかもわかんねぇがとにかくとんでもねぇことしやがる」
と、思っていそうです(爆)
更に、土佐や長州と違って肥後からはあの145年間謎に包まれていた男・尾形 俊太郎が新選組幹部にまでなっているので、もう何が何だかわかんねぇんじゃねぇかと。
土方 「おい尾形!おまえ同郷だろうが!アイツらを説き伏せてこい!」
尾形 「嫌です。(きっぱり) そもそも私は脱藩した身。藩の前に出てゆけば私の方が藩に逮捕されます。」
近藤 「トシ……。オレたちは元は浪士集団だ……」
と、いう展開になってたりして。
「浪士組」加入者は以前に犯した罪は免除されたようですが(脱藩も?)、会津藩預かりとなった「壬生浪士」以降はどうなのでしょうね?
という訳で、肥後人と新選組の意外に多い接点についてでした。
