現在執筆中の久坂・宮部・彦斎小説では、明治維新後にも軽く触れようと思っているので(彦斎が存命なので)、明治政府についても少し詳しく調べているところです。「薩長土肥」というワードはみんな知ってる、どころじゃなくてむしろ学校で一方的に教えられるレベルなので、詳しくは触れなくていいんじゃないか、と思っていたのですが、インターネットサイトなどを見ているとものすごく誤解が多く、ちょっと焦ったので、私のブログでも触れて補足してみたいと思います。

まず、「薩長土肥」
「薩」 = 薩摩 (鹿児島県)
「長」 = 長州 (山口県)
「土」 = 土佐 (高知県)
までは誤解される要素が全くゼロなのですが、

「肥」 肥前 (=佐賀県) のことであって、肥後ではないです!


ややこしいよね。

私はこれで、小学校の頃に先生から
「薩長土肥の肥は肥後(熊本)じゃなかぞ!肥前(佐賀)だけんな!」
と、口酸っぱく言われて育ったのを思い出しましたよ。おかげでそこの記憶だけは鮮明でした(爆)

しかし、それにしても誤解が多すぎじゃないか?テストに出ないのか?先生はそこを強調しないのか?もしかして気にするのは熊本と佐賀だけなのか?といろいろ思いを巡らせたりもしましたが、龍馬伝や八重の桜を視聴していた人でさえ誤解するようなこの問題。来年の大河の予習にと、幕末の肥後藩(熊本)と肥前藩(佐賀)の違いについて、まとめてみたいと思います。



だいたい、暴れすぎなんだよね、熊本。 (個人的感想)



恐らく、肥後と肥前でごっちゃになるのは、名前や土地が近いだけではなく、「雄藩」と言われる
大きな石高をもつ藩であったこと(狭義では、肥後は「大藩」ではあるが「雄藩」ではない)、両藩ともアームストロング砲を持つなど先進的であったことがやはり被るからだと思いますが、それ以上に肥後に過激な志士が多かったことが大きいのだと思われます。ここで、肥後と肥前の活動時期の違いについて簡単に挙げてみる。

肥後
の尊皇攘夷運動の起こりは黒船来航後、1855年くらいです。倒幕とは限らないのがミソです。
尊皇や外国について論じていた人は以前からいましたが、同志を集めて組織化し、初めて行動に起こした人が宮部 鼎蔵(みやべ・ていぞう)といえそうです。活動時期はだいたい水戸と被ります。水戸は、水戸学と尊皇攘夷が結びついてから桜田門外の変、天狗党の乱などを経て疲弊してゆき、明治になる前に力尽きてしまいますが、肥後もまた、八月十八日の政変で数多くの脱藩者と逮捕者を出し、池田屋事件で活動の中心であった宮部、松田 重助が殺されてしまいます。その後、禁門の変で殆どの志士が死に、肥後の尊皇攘夷志士の活動は実質的にそこで終焉を迎えます。ここで重要なのは、彼らの行動は派手ではあったけれど、藩はまったく関与していないということ。肥後が藩として薩長側に翻るのは大政奉還後、それまではあくまで佐幕です。

一方で、
肥前 はあんまり詳しく知らないのだけれども(すみません、佐賀県民…)、二重鎖国というものをやっており、藩士の藩内外の出入りを厳しく制限し、場合によっては死罪で、幕末においてもその状態だったためとても志士が出てこられるような土壌ではありませんでした。江藤 新平佐野 常民など尊皇攘夷を唱えた者もいないことはないですが、肥後と違って一掃ではなく、その都度藩に閉じ込めるようにしていました。
藩主の鍋島 直正は機を見ていたともいわれ、彼の独裁政治の下ひたすら藩内の近代技術、軍事力増強につとめ、常に一歩引いた視線で徳川幕府や諸藩の動きを見ていたようです。そして、「肥前佐賀が味方についた側が勝つ」と言わしめるほどの力をつけ、自藩を買う者が現れるのを待ちます。大政奉還、王政復古まで待ち続け、戊辰戦争に入る頃、薩摩および長州にスカウトされるのです。


ここで活動時期を並べてみると、

肥後(志士の動き)・・・1855年ごろ~1864年
肥前(藩の動き)・・・1867年~明治以降

になります。
薩長(土)が幕末から明治にかけて一貫して活動しているのに対し、肥については肥後が幕末のみ、肥前が明治のみと活動時期が分かれているので、きっと混乱しやすいのですね。


更に、両藩の共通点としては明治期に士族反乱を起こしていることで、これがまた混乱の元だと思います。

士族反乱は、佐賀県(佐賀の乱)、熊本県(神風連の乱)、福岡県(秋月の乱)、山口県(萩の乱)、鹿児島県(西南戦争)と、薩長土肥のうち三藩から反乱者が出ています。秋月の乱は神風連の乱に呼応したものですが、
何故に肥後が出張るん!?とついツッコみたくなるでしょう(笑)
動機はもちろん廃刀令に対する不満が第一でしょうが、実はそれだけではなく、神風連と呼ばれる乱の実行者たちは、八月十八日の政変で逮捕された若い攘夷志士たちで、唯一禁門の変、長州征伐を生き抜いて肥後に戻ってきた河上 彦斎を心の拠り所にしていました。しかし、長州反乱軍の大楽 源太郎が助けを求めてきたのに応じたことを明治政府への反逆とみなされ、彦斎は斬首されてしまいます。長州側の事情に完全に巻き込まれた(彦斎の処刑を命令したのは長州閥の木戸 孝允といわれています)形での斬首に、彦斎と親しかった太田黒 伴雄(神風連首領)らは決起を誓います。いわば仇討ち的側面もあり、初めから生きて帰るつもりはないカミカゼ要素があったようですね。


後は、維新の功労者として肥後からは横井 小楠(よこい・しょうなん)が出ていまして、この人がまた坂本 龍馬に影響を与えていたり、勝 海舟から重要視されていたり、維新の十傑に数えられていたりこの人一人がめちゃくちゃ有名なので、そこがまた肥前と混乱する原因なのかもしれないですね。



実は私も元は歴史に興味のない人間だったので、薩長土肥の肥が肥前だろうが肥後だろうがわかる人にわかればよいと思っていました。ただ、佐賀さんにはちょっと申し訳ないかな程度で。しかし、たまたま会津藩関連のホームページを見た時に「薩長土肥(鹿児島県・山口県・高知県・熊本県)勢力が政治の主導権を奪おうとし、会津はそれに~」みたいなことが書かれていて、あら、これはいわれもない恨みを買っているかもしれん、やはり歴史はうやむやにしてはあかんな、と実感しました。評論系の割ときちんとしたサイトでも間違って書かれているので、本当にややこしいんだなあと。肥前も武器を提供した程度なので恨まれるいわれはないとも思うのですが、肥後となると恨む相手としては全く違うし、それどころか松田に至っては会津藩士に殺されているので、功績も罪過も結局は本人に還元すべきだなぁと思ったこの頃。





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