最近は頻繁にブログを更新している気がします、でうくです。今回はちょっぴり長い休暇を頂いているので、京都と沖縄、どちらも初めて踏みしめる土地の旅を敢行してきました。京都が古来の日本を巡る旅というのなら、沖縄は最も身近な古の異国を巡る旅といえるでしょうか。ある意味で対照的な旅でもあります。
歴史がマイブームとなって久しく、まだまだ熱が冷める気配が無いので、気づけばプランは琉球王国時代の遺跡巡りに。沖縄の歴史については、那覇市にあったテンペストのポスターを見て、初めて「あぁ!琉球が舞台だったんだあの舞台!」と知った位に全く触れた事が無かったのですが、この旅をきっかけにして琉球王朝に興味を持ちました。書いてみるか小説。
以前つくばや札幌に行った時も感じたのですが、平地になるとこれ程にも土地が広く感じるものかね。顔を上げればすぐに視線が山にぶつかる盆地育ちの私にとっては、それだけで十分目新しかったです。そしてものすごく都会。今回は割と沖縄本島を万遍無く回れた形で、北部(北山、やんばる)、中部(中山)、南部(南山)の風土の違いがありありとわかりました。北部は那覇市のある南部と違って山ばっかりで、本島北部の事をやんばる(山原)というなんて初めて知りました。ヤンバルクイナの生息地もこの地域なのですね。
最も都会である那覇市周辺に最も琉球王国の遺跡が多いのにもびっくり。もう少し外れた地域に保存されているものだと思っていた。でも、本土の城下町も現在に至るまで都会だったりするし、別に不思議な事ではないのか。那覇市にある県立博物館では琉球王国時代を遡り、まさかまさかの港川人からのお勉強となりましたが、無学な私としてはすごくわかりやすかったです。弥生~平安平行時代という馴染みの無い名前も出てきて、何なのだろうと初めは不思議でしたが、これは本土でいう弥生時代が沖縄本島では平安時代まで続いたという意味なのですね。でも、本土と異なる面はその時代から中国や日本と交易をしていたというところ。中でも九州北部との交易は早くから行われていて、弥生土器などの製造技術は九州北部から伝わったのだとか。交易するなら鹿児島の方が近いだろうに。そこも不思議。海流の関係か鹿児島はまだ技術が発展していなかったのか。。。弥生~平安平行時代の次に訪れるグスク時代が、本土でいう古墳時代に該当するよう。「あも」と呼ばれる地方豪族の長たちが各地にいたそうで、北部から南部に散らばっている城跡(ぐすくあと)は地方豪族の墓を指している模様。その後、北山王国・中山王国・南山王国に分かれてそれぞれ発展する三山時代を経て、中山王国の王が北山と南山を支配する事で琉球王国が誕生したとの事。これが確か、本土でいう鎌倉時代。以降は、明(中国)に朝貢をしながら日本との関係を続けていたけれど、この頃は中国との関係を重視していたようです。影響も中国から受けたものの方が大きいように思えるのですが、言葉こそ違うものの使用していた文字が平仮名なのが面白いトコロです。どうしてだろう。
琉球王国となってからの日本との交易は、九州北部ではなく南部(薩摩)が相手となっているのですが、豊臣 秀吉が行なった朝鮮出兵に由来する中国大陸との仲介を要請され、中国との関係重視から断ると薩摩が攻めて来るという横暴ぶり。結局、薩摩が琉球国王を捕え日本の支配下に置いてしまうのですが、薩摩は幕末には日本本土にも反旗を翻して明治維新を起こすのですな。今の日本の国土があるのは薩摩のおかげだといえば確かにそうだけれど、薩摩ほんと恐ろしいわ。怖いよ隣国。熊本城はよく西南戦争で隣国からの攻撃に耐えたものだなぁ。
京都もそうだけれど、沖縄の方もすごく観光客慣れしていて、地域住民の方がグァバをもいで渡してくれたり、交通機関の運転手さんが旅のアドバイスをしてくれたりしていました。50代以降の方は結構訛り(琉球語)が残っていて、早口で喋っているのを聞くとまるで中国語のようだと思いました。ただ、耳を澄ましてしっかり聞くと、通じるというか、本土と共通部分もある。漢字や平仮名といった文字だけを見ていても解らなかったりしたのですが、会話を聞くと結構理解できる部分も。不思議というか、日本語と中国語の隔たりの間にある言語のように思えて、面白かったです。あと、沖縄の方には割とよく「内地の方ですか?」という聞かれ方をしたのですが、何と答えてよいのかわからずついしどろもどろに......沖縄の方がそう言うのはどうも思わないのですが、こちらが「内地です」と言うのは違う気が......「本土から来ました」と言うのも違うだろうし、一応「熊本です」と言っておきました。まぁ、これまで3年間関東の方たちと接した経験では、東の方にとっては九州も沖縄も「未開の地の他所者」と言えそうですが......
那覇市を少し北に車を走らせただけで、国道58号線の左右は米軍基地。歴史的町並みが広がっていた南部とは一線を画した風景に。嘉手納基地も意外と近くにあって、とてもミーハーな感覚で申し訳無いのですが「ここが話題となっている基地か」というのが正直な感想でした。しかし、嘉手納基地だけで驚く程の土地を米軍が使用している上、加えて普天間基地もあるとは。。。更に米兵専用のナンバープレートがついた車も普通に走っていて、歴史的名残を感じました。それらに加えて、米兵による犯罪が頻発していれば、沖縄の方が怒るのも無理は無いよなと思いました。敗戦国の宿命ではあるのですが、せめて沖縄の負担を分散させる必要はやはりあるのかなと。琉球新報などの話で、沖縄の方は日本本土を嫌っていると聞いた事があるのですが、日本を自分の国だと誇りにしている方もいると知ったので、国はやはり守らねばと。テポドンの件もそうですが、九州人は大方が中韓に対して危機感を抱いていますが(嫌中・嫌韓ではなく)、東の方は他所の国の出来事のようにそれを見ている。東日本大震災の件も同じで、直接的な被害を受けていないので国はえっちらおっちら処理をしている状態ですよね。住む所変わればという典型的なパターンですけど、国はそれではいけないんじゃないかなぁ。一度経験してみればいいのではと思うのですが、今の国の体制では経験すれば国全体が滅亡するので、危機感を養う為にも首都機能を分散させたがいい気がする。
話がかなり逸れましたが、そう大して無い知識を組み合わせてしまったのは、中部で降り立った所が北谷町(ちゃたんちょう)のアメリカンビレッジだったからです。看板は全て英語表記で、日本語も表記されているけれど補助程度。嘉手納基地がすぐ傍だった事もあり、米兵の為に造られた行楽地なのだと思ってしまいました。翻弄された歴史的背景だけに、沖縄の方たちを日本も他の国も相当振り回してしまったなと反省。写真に写っている観覧車の中で、沖縄に平安が訪れますようにと結構本気で願ったものです。そして、観覧車を降りアメリカンなお店をきょろきょろしていると、レジの前にパンフレットが。表紙には「美浜アメリカンビレッジ」と如何にも観光客を意識した感じ。しかも、タウンリゾートでアメリカンな雰囲気を売りとしたエンタテインメントエリアだと。・・・お、おう......。逞しい、逞しいぞ、沖縄。背景をバネにする位の逞しさが無ければ、一つの国として数百年も存続は出来なかったよな。
と、楽しい中にも色々と考えさせられる旅ではありました。まぁ、それは京都に関してもそうなのですけれどね。今週から再び魔界都市新宿に戦いに馳せ参じておりますが、取り敢えず明日は図書館にてテンペストを借りよう。興味は尽きない。