以前ブログで述べた通り、現在、京都へ来ています!
今回は(たまたまですが)、尾形 俊太郎が(というか新選組が)通(とお)った道や通(かよ)った所、住んでいた地域を歩く事になりまして、本日までで壬生寺、八木邸、京都御所、二条城を廻って来ました。京都御所は現在執筆している宮部&彦斎の物語の主人公(?)・久坂 玄瑞が自刃した禁門の変の現場でもあったので、これから書く意味でもすごく参考になりました。
実は京都を旅するのはわたくし初めてでして、その旅のメインが(私にとってですが)尾形さんを巡るものになったのは嬉しい限りです。今回は、尾形 俊太郎が本当に京のこの地にいたんだという証拠を手に入れる事を目的にしています(笑)
これは、壬生寺の壬生塚にある池田屋事変前後まで在隊した新選組隊士の合同墓。実は、この墓に刻まれた筆跡が尾形 俊太郎のものなのではないかと言っている方がいるのです。その根拠は、左端に書かれている阿比留 栄三郎の「原」の字。この墓碑では、「阿比原」と書いて「あびる」と読ませているのですが、「原」を「る」と読む地域は九州地方のみで、九州出身で書に長けている隊士は尾形さんのみ、とのこと。確かに、熊本では「柿原」「高遊原」「託麻原」をそれぞれ「かきばる」「たかゆうばる」「たくまばる」と読みますね。正確には「ばる」ですが、「はら」と読む地域の方が少ないかも知れない。
こちらが、芹沢さんと平山さんの墓。阿比留さんたちの墓と筆跡が似ているような。芹沢さんと平山さんを知る九州出身の隊士、となれば確実に尾形さんだけなので、その線は濃厚と言ったら濃厚。とてもきれいな字ですね。
こちらは阿比留さんたちの墓の側面に彫ってある武田観柳斎の筆跡。こちらは武田だと確実なのかな?尾形さんと武田の性格の違いが文字に出ているのでは、と考えたいところですが、多分二人とも漢書あたりを模写して書いているのできっと関係無い(笑
墓の筆跡に尾形さんの存在を感じる事が出来たのはさる事ながら、無類のフォント好きでもあるので、何分墓石を見ていても飽きませんでした。何せ好みの書体が欧 陽詢の九成宮醴泉銘。あの楷書体はたまりませんなぁ。
明日は霊山歴史館へ行って、例の晩年の漢詩を見てきます。いやぁ、楽しみだなぁ。