ミシガン州デトロイトは言わずと知れた米国のモータウン。そこからほど近いYpsilanti(イプシランティ)という街にはかつてフォードの工場があって、戦時中には自動車を量産するごとくB-24を大量に生産し、完成したB-24は隣接するWillow Run(ウィローラン)空港を飛び立っていきました。
そのウィローラン空港では毎年「Thunder over Michigan」という航空ショーが開催されています。この空港内に本拠地があるYankee Air Museum(ヤンキー・エア・ミュージアム)が、毎年魅力的なテーマのもとに素晴らしい航空ショーを見せてくれます。
私は2010年と2011年にこのThunder over Michiganエアショーを訪れました。2010年のテーマはB-17で、なんと8機のB-17が集結、大空を舞ったのでした。
B-17は第二次世界大戦中に世界各地で活躍した爆撃機ですが、とりわけ欧州戦線でナチスドイツに対して行った危険極まりない爆撃行はその初期には戦闘機の護衛もなく多大な損害を出しながら続けられ、多くの若き搭乗員たちが還らぬ人となったのでした。命令とはいえ、愛国心と故郷の愛する人々のことを胸に危険な任務に挑んだ若者たちに思いを馳せるとおもわずこのヒコーキには特別な感情を抱かずにはいられず、私はこのB-17がとても好きなのです。
エアショーは文句なしに素晴らしいもので、8機のB-17は一列縦隊で円を描いて空港上空をぐるぐる飛んだだけでしたが、それでも十分に感動的な光景に私は大満足でした。
私はその時の興奮を以前、別の航空ショーで知り合ったドイツ人の友人にメールしたのですが、彼から帰ってきた返信は予想外の内容でした。それは「たくさんのB-17が飛び回る光景なんて観たくないよ。」というものでした。私には彼の反応は意外なものでしたが、すぐに第二次世界大戦中に彼の祖国がB-17の爆撃で被った被害を思い出し、彼自身は私と同世代の戦後生まれなのですがもしかしたら彼の親類や友人などが戦時中に爆撃で大変な思いをしたのかもしれないと思い、自身の思慮不足を恥じたのでした。
ですが、割り切れない思いが残ったのも事実でした。私の祖父は二人とも戦争で亡くなりました。そのこともあって私も中学生ぐらいまでは特に米国が嫌いでしたが成長するにつけ戦争そのものを憎みこそすれ個々の名もなき兵士や道具であるヒコーキをかつての敵のものだからといって嫌いにはなりませんでした。ゆえにドイツの友人の反応には腑に落ちないものがありました。
その翌年、私は有名なEAA Air Venture(エアベンチャー)を訪れました。EAA(Experimental Aircraft Assosiation)は世界中に会員を持ち、自作機、自家用機から古典機やいわゆるウォーバードなどのオーナー、パイロットが所属する巨大な組織で、毎年、夏にAir Ventureと銘打ったイベントを開いています。
私が訪れた年にはその当時世界で唯一の飛行可能なB-29、「FIFI」の参加がアナウンスされていて、楽しみの一つでした。
B-29は戦争中に日本を焼き尽くし、原爆を投下した憎むべき悪魔・・・なのかもしれませんが、前述したように私はヒコーキそのものに罪はないという考えでしたし、それよりもヒコーキそのものの美しさや優れた技術に驚嘆することのほうがずっと前向きで有意義なことだと思っていました。
B-29は数機のP-51マスタングをエスコートとして従え、会場上空に現れました。B-29が飛行している姿を見たのが初めてだった私はその優雅な姿に感動を禁じえませんでした。
後日、「FIFI」がデモフライトを行いました。4基の巨大なエンジンが発する重厚なサウンド、銀色に輝く美しい機体が旋回してランウェイに進入すると地上に仕掛けられた爆薬が発火しました。爆撃を再現する余興なのですが、この瞬間私は「はっ」と我に返り、ドイツの友人のメールを思い出しました。
何十年も前に業火に焼かれたのは自分と同じ民族だったのだとの思いが私の脳裏を支配し、楽しかったエアショーは一転、私は暗澹とした気分になりました。はっきり打ち明けますがその中には間違いなく憎しみの感情が含まれていました。私は自分の中にこんな感情が沸き上がったことに少々戸惑いました。と同時に友人のドイツ人の気持ちが分かった気がしました。
私はいまでもヒコーキそのものや命令を受けて危険な任務に向かう若者たちには罪はないと思っています。しかしながら憎しみの連鎖というものが確かに存在し、それを断ち切ることはとても難しいのだろうとも思います。
ヒコーキが好きな私にとってヒコーキが兵器として使われることはとても悲しいことなのです。