半落ち
半落ち
はんおち 【半落ち】
警察用語で,容疑者が容疑を一部だけ自供している状態のこと。
〔自供することを「落ちる」ということから〕
半落ちの意味すらわからなかったわたしは
この映画を観終わってすぐにその意味を調べた。
むかしと言ってもそれほどむかしの話ではないけれど
アルツハイマーの初老の女性を道端で拾ったことがあった。
彼女は、目上の人間に彼女というのはふさわしくないかもしれないが、
彼女は、自分の家がどこにあるかすらわからなかった。
彼女の言う電話番号に掛けてみても全然繋がらない。
深夜だからあたりまえなのかもしれないが、自分の肉親がいなくなったことを
何も思わず、放ったらかしにしていたのだろうか。
寒い真夜中に薄いカーディガンと、素足にサンダルを履いていた彼女を昼間見れば
散歩途中のおばさんにしか見えなかっただろう。
彼女の肉親もまた彼女のアルツハイマーに苦しんでいたのかもしれない。
それは、わたしには知れない。
結局その初老の女性を警察に引き渡したが、その後何の連絡もない。
あの女性はどうしているだろうか。ふとそう思った。
更に骨髄バンクについても調べてみた。
わたしは自分の無知を感じた。
生きている人間でも骨髄は提供できるのだ。
今まで、骨髄バンクや臓器移植、そういったたぐいの支援を偽善行為にしか過ぎないと
思っていた自分を恥じた。
けれど、今でも臓器移植のドナー登録にいざ踏み込もうとすると、尻ごみするだろう。
わたしの身体の一部が、もしくは、使える所ならばすべてが、他の誰かの身体の一部
に変わる。
死ぬことは、魂が抜けることだから、魂が抜けた肉体は入れ物にしか過ぎない。
けれどわたしはわたしの肉体に執着心をまだ持っている。
死んだ後のことは、自分の知る所ではないことはわかっている。
なのに、わたしはわたしの肉体全てが焼かれて灰にならなければ、
生まれ変わることが出来ないような気がしている。
怖いのだ。わたしはわたし自身の為に生きているから。
あなたは だれのために いきていますか?
きっと原作の方が何倍も胸にくるものがあるだろうと思う。
いきるとは何か。しぬとは何か。わたしは知りたい。
はんおち 【半落ち】
警察用語で,容疑者が容疑を一部だけ自供している状態のこと。
〔自供することを「落ちる」ということから〕
半落ちの意味すらわからなかったわたしは
この映画を観終わってすぐにその意味を調べた。
むかしと言ってもそれほどむかしの話ではないけれど
アルツハイマーの初老の女性を道端で拾ったことがあった。
彼女は、目上の人間に彼女というのはふさわしくないかもしれないが、
彼女は、自分の家がどこにあるかすらわからなかった。
彼女の言う電話番号に掛けてみても全然繋がらない。
深夜だからあたりまえなのかもしれないが、自分の肉親がいなくなったことを
何も思わず、放ったらかしにしていたのだろうか。
寒い真夜中に薄いカーディガンと、素足にサンダルを履いていた彼女を昼間見れば
散歩途中のおばさんにしか見えなかっただろう。
彼女の肉親もまた彼女のアルツハイマーに苦しんでいたのかもしれない。
それは、わたしには知れない。
結局その初老の女性を警察に引き渡したが、その後何の連絡もない。
あの女性はどうしているだろうか。ふとそう思った。
更に骨髄バンクについても調べてみた。
わたしは自分の無知を感じた。
生きている人間でも骨髄は提供できるのだ。
今まで、骨髄バンクや臓器移植、そういったたぐいの支援を偽善行為にしか過ぎないと
思っていた自分を恥じた。
けれど、今でも臓器移植のドナー登録にいざ踏み込もうとすると、尻ごみするだろう。
わたしの身体の一部が、もしくは、使える所ならばすべてが、他の誰かの身体の一部
に変わる。
死ぬことは、魂が抜けることだから、魂が抜けた肉体は入れ物にしか過ぎない。
けれどわたしはわたしの肉体に執着心をまだ持っている。
死んだ後のことは、自分の知る所ではないことはわかっている。
なのに、わたしはわたしの肉体全てが焼かれて灰にならなければ、
生まれ変わることが出来ないような気がしている。
怖いのだ。わたしはわたし自身の為に生きているから。
あなたは だれのために いきていますか?
きっと原作の方が何倍も胸にくるものがあるだろうと思う。
いきるとは何か。しぬとは何か。わたしは知りたい。
とあるいぬのはなし
変な時間に寝てちょっと メランコリックな気持ちになったので
起きたての眠い眼をこすりながら これを書いてみる。
とある いぬのゆめをみた。
わたしんちにはいぬはいない。
わたし自身ねこみたいな性格だから、しろくじちゅうかまってかまって
やられたりするときっとげんなりするんで、たまにかまうくらいがちょうどいい。
こいぬのときから知っていて、たまに飼い主が旅行に行ったりすると
泊まりにやってくるマルチーズがいる。
もうにんげんでいったら、おばあちゃんになるほどの、ろうけんになってしまったけど
わがままもすべてゆるされるほどの べっぴんさんだから
みんなかわいがって、「わたしが一番」みたいに偉そうにしてた。
でもかわいいからしかたない。
そのいぬが来ればどんなわがままも聞いてあげなきゃならない。
かわいいかおしてるからしかたない。
飼い主はじまんげにそのいぬをつれて街を出れば「かわいい」といわれつづける。
自分の意思がとおらなければ、通るまでほえつづけるというこまったそのいぬも
しんぞうにびょうきをわずらっていて、いちどしにそうになったこともある。
その時飼い主は、もういっぴきいぬを飼うことを決めたようだ。
そのいぬは ひっくりかえるほど ぶっさいくで
ならべてみれば そのぶさいくさは ひどくひきたつ。
でもびじんないぬも おばあちゃんになってしまったから
「わたしが一番」の座を争うほどのたいりょくを、持ち合わせていなかった。
いまやぶっさいくないぬが ふふんとわたしが一番という顔をしている。
ぶっさいくなのにもきづかずに。
たまにぶっさいくないぬは、わたしといもうとがかわいがっている、
かつて「わたしが一番」だったいぬに、こうげきをしかけてくる。
そのたびに争う体力のないかわいいろうけんは、にげまどって、
わたしやいもうとの後ろにかくれてくる。
それは、わたしが見ていないところでも、ひんぱんに起こっていることなんだろうと思う。
飼い主にとって、かわいいろうけんは2番目のいぬになってしまったのだ。
わたしが見ていない所で、ろうけんはぶっさいくないぬのこうげきにたえているのだろう。
いぬは桃のかおりがしていた。
今じゃすっかりろうけんのにおい。
たべものなんて見向きもしなかったのにきょせいをしてから ぷっくりふとってしまった
たべものを見ると血走った目でほえつづける。
「ちぎってくれなきゃ ジャーキーなんて食べなくってよ」
という顔をしていた、高貴ないぬはどっかにきえさってしまった。
わたしの知ってたいぬは、かわいさだけわずかに残してどっかにいってしまった。
もう眼は白濁していて、会うたびにろうけんなのだということを実感する。
そしてお別れはそう遠い未来でないことも。
救いをもとめる眼で、わたしを見つめるまなざしを、夢でみた。
ぶっさいくないぬは、どこにも登場しなかったけど
かわいいがために、こ汚くて騒がしい部屋に連れていかれて、もてあそばれていた。
なにもできずにいるそのかわいいいぬを、煮えたぎる怒りとともにいそいで助けた。
いぬは桃のかおりがしていた。
最近借りてみた映画
1月5日
ナイトメア・ビフォア・クリスマス
あれ?こんなストーリーだったっけ。少し拍子抜け。
クリスマスも過ぎてるし仕方ないか。
花と蛇
団鬼六原作の何度も映画化されている作品。
杉本彩はどこまでも追及する女だとおもった。
「ママー赤ちゃんってどこから生まれてくるの?」
「それはね、コウノトリさんが運んできてくれるのよ」
じゃ絶対済まない世界だ。
彼女の目指すのは性の解放。
社会への反発として戦っている映画という面でしか観る事は出来なかった。
1月8日
ミスティック・リバー
クリント・イーストウッド監督作品なんですね。
知らなかった。知らない事が多いですね。
ショーン・ペンが渡辺謙を押え、助演男優賞に輝いた作品です。
だけど、なっとくいかないっす。渡辺謙にあげて欲しかったです。
それは日本人だからとかじゃなく。
最後の方のシーンで
「パパは愛する人達の為なら何でもする。
それはいつも正しい。決して間違いはない。どんなことをしても」
というセリフが出てくる。
罪のない過去に傷を背負った男は報われないまま死んだ。
それが間違いであったかどうかなどどうだっていい。
最後のあのセリフさえなければ。
1月9日
涙女
人の死を金にかえる女にバチがあたったはなし。
2005-01-10
だれもいない海 がほんとうにあるのだとしたらそこへゆこう
にんぎょひめは海のあわになって 消えてった
それは三ツ矢サイダーのあわのように こまかいしゅわしゅわだったのだろうか
しゅわしゅわ しゅわしゅわ
きらいだったもの。
さいきんじゃ ひていできなくなったもの にかわった。
きらいなものは みたくないものだから
みたくないものを むりやりみることが ぷらすになるとはかぎらない。
すきだったものもあいまいになって
きらいだったものもあいまいになって
なにがすきだったか なにがきらいだったか そろそろわすれてしまいそうだ。
でも 変わらずわたしはここにいる。
2005-01-09
わたしは今まで真っ直ぐ歩きつづけた。
どんなしょうがいがあってもたいあたりしてでも真っ直ぐ歩きつづけた。
わたしの辞書に"迂回"ということばはなかった。
どんなにぶあつい壁だって どんなにきけんな いばらのみちだって歩きつづけた。
そして、わたしはまだ体当たりし続けている。
23年にしてわたしのからだはボロボロになりかけている。
ねぇ。迂回しようか。
もうしんじつにうつくしくなくたっていいじゃないかって。
そうおもうんだ。
2005-01-09
まちわびた写真の出来がわるかったときほどがっくりくることはない。
散々なできだった。
むりやり歩かされたおとといだかそんなとき
そらは憎いほどにあおあおしく 遠くの町並みまでわたしの目に写した。
だけど 今わたしの覗くレンズにそれは写ることはないことを知ってる。
こんなにもにごった眼をもつわたしが写す写真には生気などない。
2005-01-05
長さのたりていなかった軟骨のピアスホールが
いまにもふさがってしまいそうだったので
しかたなく、やたら長い18Gのボディピアスで
軟骨のあなをかくちょうした。
知ってるひとは知ってるだろうけど、ピアスは数字がおおきいほどほそい。
数字が小さくなればなるほどふとくなってゆく。
わたしのあなは20Gぐらいだったんだと思う。
ひどい痛みが走った。
痛みにどんかんになっているわたしが痛かったのだからそうとう痛いのだろう。
あたらしい生命をうみだすときに感じる痛みにくらべたらどっちが痛いだろう。
鼻に大根をつっこむほどの痛みなど想像できない。
そんなことを考えながら痛みを感じていた。
晩年の子供
山田詠美著書「晩年の子供」という本の一章節にこんなことばがのせられてた。
"私は、なるべく、人々に衝撃を与えないように死にたいと心から願った。
何事もなく日々が流れて行き、知らない内に、私だけが彼らの中から抜け落ち、
私の死など気付きもしないくらいに家族が幸福であること。
私が望んだのは、そのことだった。"
わたしが望む死も同じだ。
だれもが気付きもせず、思いだすこともなく、悲しませることもなく
すっぽりとぬけおちて死んでいきたい。
けれど、それはとうてい無理なことなのだということも知っている。
わたし自身だれかを思いだし、想い、それはわたしの中に染みついた記憶。
いつか、だれからも思い出されなくなったとき、ぬけおちてゆきたい。
でもそれは、とおいとおい未来。
ラスト・プレゼント
ラスト・プレゼント
韓流ブーム。
にあやかって観てしまった。というわけではない。
最近映画はもっぱらwowowで観るわけで たまたま観たのです。あしからず。
ブームに乗ってるような感じがいやなんです。意固地なだけです。はい。
純愛好きにはたまらない映画です。別に純愛好きではありません。はい。
お互いを思いやりつつも素直になれない夫婦。
笑いと涙 両極端なところにあるものをもってくることによって
余計涙を誘うってわけだこれ。
まあ純愛ものですから、ちょっとありえないでしょう。
と思える展開もありますが、少女マンガ好きなのはみとめましょう。
「八月のクリスマス」に続いて不覚にも号泣だったわけです。
泣きたい人にお勧めします。
2005-01-04
だれかが泣けば だれかが笑う
だれかがうたえば だれかがおどる
だれかがうまれりゃ だれかがしぬ
しぬことといきることどっちがむずかしい
しぬことにゆうきがいるとしたら
いきることにもゆうきがいる
せいめいはいつかしぬ
くもりなきまなこでいろいろなことがらをみつめ
いきぬくことがいちばんむずかしい