自由か無秩序か | Aprikos blogg

Aprikos blogg

色々ありますが、それでも前を向いて生きようとしているMtFな私の天然ブログです。

こんばんは。

先程、杉田水脈議員の論文に端を発し、大きな議論を巻き起こしました「新潮45」の休刊が発表されました。

LGBT’sのみならず、多くの人達の心を傷つけたあの文章は、近年稀に見る怖ろしいものでした。

生産性という言葉で人の生きる価値を比べる…

かつての優生保護法や、ファシズム思想などがまかり通っていた時代へと逆行させられたような、本当に不快な文章でした。

しかも、それを擁護すると鳴り物入りで上梓された10月号では更に火に油を注ぐ内容となっており、呆れると言いますか…最早言葉を失います。

当然、批判も強く出て、大炎上した訳ですが…

それを受けての休刊という流れのようです。

ただ、新潮社のこの様な行動により、当然ですが批判した側による圧力によって追い込まれたという意見も出ていまして、コレが言論の自由を奪っていると批判する人も出て来ています。

確かに、LGBT‘s側の意見が出てくれば、それに対する反対意見も当然ですが出てくる訳でして、そう思い、発する自由もございます。

ですが、言葉って時に人を傷つけ、最悪、命も奪う怖ろしいものでもあります。ですので、自由だから何を言っても良いというのは、時に間違いでもあるのです。

イジメやパワハラやモラハラで精神を病み、自殺にまで追い込まれていった人達や、かつての横浜事件の様な言論弾圧事件などを、どう説明するのでしょうか? 説明がつかないはずです。

それに、新潮45の休刊は誰も望んではいませんでした。確かに不買運動は起こりましたが、コレも個々の判断で言えば買うも自由、買わぬも自由で、抗議のパフォーマンスに過ぎません。

そう、雑誌自体を読もうと思えばどこでも読める状態…

ただその内容は、言論の自由を超えて、存在すら否定する、言葉による暴力そのもので、看過出来るものではないと、私はそう考えています。

論ずる対象を理解しようともせず、誤解と偏見、己の感情のままに書き散らされた文章をあたかも世間一般の意見であるかの様に説くその姿に、おぞましさを感じます。

ヘイトも意見であり自由という人たちがいますが、自己の感覚とは相容れない人たちを社会から排除し、石を投げつけて追い出せ!とアジテートする事も自由なのでしょうか?

生きる権利、存在する自由すら否定する言論にも自由があるのでしょうか?

それは自由ではなく、無秩序、もっと言えばワガママでは?

何か履き違えていないかな?

私はそれに対して批判していたつもりでした。だけど、出版社や著者達の人権や人格まで否定しようとはサラサラ思っていませんでした。そういう人も世の中にはいる。その程度でした。

なので今回の新潮社の対応には残念でなりませんし、むしろ、休刊という行動によって…否、これ以上は言いますまい。

こんな時、海外の先人たちはどう対応したのでしょうね?

未だ感情をコントロール出来ていない自分の未熟さを痛感しています。


ヒマワリあぷりこっと
乱文失礼致します。m(__)m