21世紀が20世紀を捨てるとき | Aprikos blogg

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色々ありますが、それでも前を向いて生きようとしているMtFな私の天然ブログです。

おはようございます。(^^)

 

今日は七草。

 

私はちょっと体調が悪く、昨日も寝込んでしまいました。A(^^;;

 

今日は、お粥さんを食べて、暖かくして、ゆっくりしたいと思います。

 

 

さて、日曜から、関口宏さんの報道番組で心が暗くなる話題が取り上げられていました。

 

富の偏りに関しましても、これはお金持ちの人達や、会社経営者などによくあるご意見なのですが、

 

「私は、今の富を築く(会社を成長させる)ために、寝る間も惜しんで、歯を食いしばって努力してきた。それが今の結果であり、(富を得られない人たちなど)批判をする言われはない」

 

と、突き放してきます。

 

もちろん、その方々が努力してきたことは確かでしょう。ですが、それ以外の人達が努力が足りないというのはどうかな?と。

 

竹原ピストルさんの歌に、

 

…特別あからさまなだけで 必死じゃない大人なんていないのさ 

#「よぅそこの若いの」の歌詞より一部抜粋

 

というのがありますが、まさにその通りで、必死だけど、あからさまに儲けている、サクセスストーリーを歩んでいる訳ではないのですよね。

 

成功者の多くがとかく勘違いしてしまうことは、「自分一人の努力によって成功できた」と、思い込んでしまうことであり、実際は、色んな偶然(経済学の用語では、「外部的要因」と呼ぶそうです)や、結果が出るまでに関わってきた色んな人達の「おかげ」だったりもするのですよね。

 

つまり、運がよかった…と。(^^;;

 

努力などや責任感を否定はしませんが、偶然や、社会的関わりなどの「外部的要因」を忘れてしまってはいけない気が致します。

 

かつて、カール・マルクスという方が、「科学的社会主義」というのを打ち立て、将来、「共産主義」が台頭してくると説きましたが、この理論は、マルクスさんが途中で亡くなったために、完成していなかったのですよね。特に、来るべき時代の為にどうすればいいのか?というところが抜けていた…

 

それが、後のソ連や中国などの独自解釈による「共産主義」になってしまい、1980年代までに行き詰ってしまう訳ですが、でも、元々格差の広がりをなくすために始めた共産主義システムに、格差の存在を肯定している資本主義をそこに取り込んでもうまくいく筈がなく、ロシアや中国内でも、経済格差が広がるという状態を招いただけでなく、過去の共産主義によって生み出されてしまった「独裁主義・支配主義」が、「1984(ジョージ・オーウェル 著)」のような恐ろしい監視社会を招いている訳で、いやはや何ともです。

 

まぁ、日本やアメリカなどの場合は、「自己責任」という言葉で国や自治体が自分達の役割を放棄し、最大の収入である「税金」をいかに効率的に吸収していくか?というところに役人や政治家たちが力を注いでいるところが問題なのですが。

 

#様々な行政サービスを受けようと思うと、申告しないと受けられないばかりか、役所側が積極的に国民や市民たちに「このようなサービスがありますよ」と、告知してこなかった。「知らない奴が悪いのだ!」という身勝手な理論がまかり通りすぎているところとか、何とかなりませんかねぇ。かつて、身近にあった「公民館」の施設を持つ町も少なくなり、そこに住む住民たちが集まって、様々なことを「知る機会」がなくなってきたような気がします。

広報誌なども、新聞を取っていないと受け取れないなんて、これもねぇ。宮崎県だけの問題なのでしょうか?(--;;

 

経済的安定をすべての人達が享受できるようにするには、今のシステムではなかなか上手くいく筈もなく、グローバリズムが悪いとか、金融資本主義やテクノロジーの発達が悪いとか、何かのせいにしても始まらない気が致します。

 

今ある20世紀からの遺物を捨て、新しい21世紀らしい「何か」を作り、取り込んでいく…そのくらい思い切った大転換が必要なのでは?と、思っていますが、残念ながら私のポンコツな頭脳ではその「何か」を見出すことが出来ず、大変申し訳ないと思っております。m(__)m

 

デザインの世界ではかつて、色んな要素(装飾)を加えていく方向が支持されていましたが(「ロココ調」などはその極みですよね。(^^;; )、1919年に設立され、1933年にナチスによって閉校するまで存在していた「バウハウス」では、「機能性」などを重視し、虚飾を廃して、徹底的にシンプルにしていくデザインを提示していました。

閉校後もナチスの迫害に遭い、亡命せざるを得なかったそこの卒業生たちが世界中に散らばった事で、現在に続く建築や工業製品などのデザインに大きな影響を与え、支持されることになる訳ですが、この流れを加速していったのは皮肉にも、国粋主義や、その後起こった第二次世界大戦の反省などだったりするのですよね…

 

デザインの世界の様な、あからさまな革命を起こすことができるのか?21世紀が20世紀までの遺物を捨てて、新しい時代を築けるか?は、今のところ誰にも分かりません。

 

けど、何かしないと、本当に行き詰って、ますます酷くなるだろうことだけは、想像だけは出来ます。

 

ゲーム機ではないですが、この状況を「リセット」したいという空気が漂っているのは事実で、そのボタンを誰が押すのか?今、世界中でそのチキンレースが行われている状態なのかもしれません。

 

ですが、そのボタンを押せば、リセットは出来るでしょうが、ゲームとは違い、たくさんの犠牲者が出るのは必至で、タダでは済まない…若い子たちの間に漂う「戦争への不安」は、あながち間違いではありません。

 

戦争の理由なんて、どれも理不尽なものばかりですから…強力なリーダーは、支持者に対しては常に甘い言葉で近づいてきますから。そのペテンに乗せられて、酷い目に遭った人たちがたくさん…気を付けなくてはいけません。

 

しかも、残酷ですが、そのペテン師を生み出したのは他でもない、不安な空気に怯える私達だったりもしますから、空気に飲み込まれないように、尚更気を付けないといけません。

 

#「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」by.一休 (をい)ゞ(^^;;

 

だけど、人を信用しないのも、どうかと思います。人を信じつつも、他人の言葉に乗せられないように…何だか「オレオレ詐欺(特殊詐欺)」防止のキャッチフレーズのようになってしまいましたが、不安の漂うときには、意外に冷静な判断が出来なくなりますので、似てるかも。A(^^;;

 

「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と、一休さんは詠み、新しい年を迎えられたことを喜びつつも、現実から顔を背けないようにと戒めたように、未来のために、今ある現実を受け入れていくことが、新しい時代へのヒントを見出す第一歩なのかもしれませんね。(^^)

 

でも、一休さんて、僧侶でありながら、酒は飲むわ肉や魚は食べるわ、繁華街に繰り出して宴会するのが好きで、恋に生き(男色家として有名)ながら、仏の道を追求していたような、いわゆる「破戒僧」ですし。A(^^;;

 

ここまで破天荒に生きるのもどうかとは思いますが、枠からはみ出す生き方もありかと…って、これがオチ?(をい)ゞ(^^;;

 

 

ヒマワリあぷりこっと

長文になってしまいましてごめんなさい。m(__)m

「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ!」by.一休

…ごもっともです。A(^^;;