熊襲 | Aprikos blogg

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色々ありますが、それでも前を向いて生きようとしているMtFな私の天然ブログです。

おはようございます。(^^)

今日は日曜日。古地図を見せていただけるというので楽しみにしています。(^^)


古事記に、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)によって、熊襲征伐の話が掲載されています。それで、ずーっと気になっていましたので、ちょこっと調べてみました。(^^;;

古事記や日本書紀は、天皇家を中心にした物語や歴史が書かれていますので、ある程度バイアスがかかっていて、本当に正しいのかは今でも不明です。ただ、どちらの書物にも、九州地方の国々が大和朝廷の支配下に置かれていったのが、景行天皇の頃ではないかと、推測されています。

大和朝廷支配下前の当時の九州は、筑紫国、豊国、肥国が北部に、そして今の鹿児島と宮崎県、熊本県の球磨地方辺りを支配していたのが、熊襲国だったそうです。宮崎県辺りが熊襲の支配下にあったといわれる根拠の一つに、現在の延岡市の昔の呼び名が、「県(あがた)」でして、この呼び名は鹿児島県の薩摩、大隅地方にも存在しています。そして、どちらの地域に住む人たちも、阿多隼人(あがたはやと)と呼ばれていたそうです。推測でしかありませんが、かなりの広範囲を支配していたのではないかと言われております。

熊襲、意外に大きい国だったのですね。(^^;;

んで、この熊襲を討伐する為に、日本武尊がとった作戦が、女装して潜り込み、熊襲の長の兄弟を討つというものでしたが、問題は、その女装。

古事記によりますと、熊襲征伐を命じられた日本武尊に与えられた従者はごくわずか。それで、叔母である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)のいる伊勢(現在の伊勢神宮あたり)を訪ねますと、そこで渡されたのが、女性の衣装だったそうです。

でもね、実のお兄さんを素手でつまみ殺してしまう(ラオウか!(^^;;)ほどの恐ろしい怪力の持ち主なのよ?女装ってすぐにバレバレになるのでは?(^^;;

で、私の推測ですが、日本武尊は実は女装子さんではなかったかと。彼の女装の腕を知っていた叔母さんですから、女装して暗殺という計画を授けたのではないかと思ったりしてしまいました(をい)ゞ(^^;;

古代史も意外に奥深いですね(をい)ゞ(^^;;

そういえば、これは以前聞いた話なのですが、古代の日本は女性がまつりごと(政治)を納めていたらしく、天皇も女性が即位することもあったみたいです。ですが、現在唱えられている万世一系(神武天皇以来、天皇家は男性が即位してきた)の説は崩壊する訳でして、かなり議論もなされているらしいです。女系の流れが男系へと変わったのは、天智天皇の頃からという話もありますし。(^^;;


あぷりこっと
宮崎県北部地域を納めていました土持家のご先祖様が、その地に赴任してきたのが、熊襲討伐後の西暦569年頃。ですが、宇佐神宮に伝えられる話ですと、和銅元年(西暦708年)だとされていまして、200年近くの開きがあります。これも謎ですねぇ~(^^;;