吉岡 知哉立教大学総長の祝辞 を読んだ。
この祝辞は大学の自由は「考える自由」と説いている。
「現実の社会」なんて時代とともにガラっと変わってしまうこともあるのだから、
みんなが「可」と言っても、それを「否」としたり、変えていかなければならない、
という主旨(と私は思っている)のくだりが、今の私の心に刺さる。
「徹底的に考える」ことを許されたのは恐らく人間だけだ。
「考えられる」のは人間だけなのだから、
人間は葦のように弱い存在だけれども、
思考する自由を持つ、というのは何にも増して絶大なパワーだ。
しかし自由である、というのは何をしても良い、という事ではない。
映画「ティファニーで朝食を」の中で作家ポールが主人公ホリーに、
「自由な事と奔放な事は違う」
といった旨のことを言うが、まさにその通りだと思う。
人の自由は青天井ではない。
自分が許される中で、最大に行動を起こすこと、
それが自由だと思う。
そして自分が考えるのも自由であれば、
人がどう考えるのかも自由。
人の自由を奪わないのも、自由であることの責任だ。
そういうこと全ては、「考えた先」にあるものなんだと思う。
でも他人をおもんぱかる裁量の無い人が、
もし「人の上に立つ」人であったらどうなるであろう?
人間性が優れた人がリーダーになるわけでは、必ずしも、ない。
自由であることを「奔放」に置き換えられないことを願うけれども、
考えることを放棄した奔放な人に振り回されないことは、
自分次第なのだと、心しておきたいと思う。
(なげやりな人、はもっと始末に負えないけど。)
人をまとめあげたり、
大きな金を生んだり、
大きな影響力のあるような芸術作品を残したり、
後世に残るような名言を残したり、
・・・なんて事はとても出来なくても、
自分という、ごくごく小さな個体の中だけでも、
出来る範囲で掘り下げたり、
掘り下げたことを自分の中で消化し、昇華出来れば良いではないか?
個体の大きさは比べても仕方ないし。
(大きさの標準なんてものが、そもそも説明出来ないのだから。)
さて先の祝辞を読んで、自分がまだ20歳頃にこれを言われたら、
きっと理解できなかっただろう。
今なら解るが20年遅いぞ!と思ったので記しておくことにした次第である。