先生の涙の一粒は3000万人の涙に等しい。
 1939年19才の時、啓示を受けられ、日本へ発たれる。韓国を発たれる時、ソウルから釜山まで10時間かかった。その時、大先生は列車の外に映る風情農夫の姿、自然を見つめながら、涙の連続であった。そのような姿を見ていた婦人がきっと親元離れて淋しかったのだろうと共に涙して一生懸命慰めてくれた。その時、汽車の中でずっと祈られておられた。早大の理工学部(電気科)に入られるその目的は電気を学ぶ為ではなく原理を説かれる為であった。
 とても頭は聡明で勉強運動にも勝れていて、全てに関心を持たれておられた。その頃多くの友人があったけれども使命について語る事のできる友人はいなかった。当時大先生の家は貧しくもなかったので仕送りがあった。ありったけの金で同じ音楽会に一週間連続で行ったり、新宿の飲み屋でそこの女性と語り合ったこともあった。練炭屋で練炭をリヤカーで運搬して売り歩かれた。それはしいたげられた民族の心情を知る為に、又、貧しい人、労働者、裏町の人間など、如何なる面で苦労しているか、どういう人がいるかなど研究された。地下民族独立運動にも参加された。(日本からイスラエル<韓民族>を解放しようとされた。)独立運動の中のメンバーで立派な人々に会われたりした。日本の最高警察は、大先生をスパイであると思い、行動を調査し、逮捕し拷問かけた。その苦痛については、余り語られない。唯一言「日本人は悪党だ!しかし今は選民となったが、これからは天民となれ!」とおっしゃられている。
 1945年(25才)帰韓直前、品川の山で祈られた。「今に見ておれ。私は又来たるその時は私を迫害する者と、生命を賭けて闘う青年をつくってみせる」 1967年(?)日された時、祈られた通りに実っていた。「皆がその結果だよ」とおっしゃられた。大先生は悪民たる日本を更に愛し、エバ国家として許して下さった。これは主の愛の故である。

 日本での思い出は幾つかある。一つは下宿のおばさん。当時日本人は韓国人を馬鹿にしていた。大先生はその中で民族的苦痛をなめられた。しかし、そのおばさんは民族の隔てなく、大先生を日本人と同様に扱ってくれ、菓子等も同様に分けてくれた。1967年日本に来られた時、大先生は、おばさんを尋ねられた。更に品川の練炭売り(韓国人がやっていた仕事、多く侮られ嘲笑されていた)していた時、その主人は給金として正当に受け取る金額よりも10銭多くくれた。大先生は生涯これを忘れることのできないものとなるとおっしゃられた。これを通して労働の者に一番喜ばれるのはこれだと知らされたとおっしゃった。終戦前、啓示により、終戦の近づいている事を知った大先生はいよいよ使命を持って立つ時が来た事を知り帰国を決定され1945年25才の時帰国された。大先生はこれまでの間に完全に原理は体恤されておられたのである。大先生の乗船される予定だった船が沈没したので、その知らせを受けたお母様は遠い何10里の路のりを我が身も忘れて港まで走り抜かれた。大先生は別の船に乗られ無事であったと知らせを受けた時の喜びは大きかった。お母様は裸足で走って来られたので足にとげを刺してしまった。一週間位その痛みを覚える程、喜びのあまりに痛みを忘れていたのである。その時、大先生は初めて肉体の愛がその様なものであるかを悟られたとおっしゃられたという。牢屋に入られた時、母が「おまえは、そんなものやめて早く帰って来なさい。」先生「二度と再びくるな。」(と言われた。)

(つづく)
 1914年、当時世界大戦が勃発して1918年には、再臨基台としての世界的蕩減がなされアベル側の勝利に治まった。大先生の御聖誕の時も、イエス様の如く、300年前から啓示があり、10年前には霊界で霊能者に大先生のお顔を示されていた。又、大先生がお母様の胎中におられる時、親戚の何人かが夢の中で天から黄龍が光に乗って胎中に宿るのを示されたのである。アダムの御聖誕が旧の1月1日、イエス様の御聖誕は旧の1月3日、そして大先生は1920年1月6日(旧)に御聖誕された。場所は韓半島の北側に属する定円という村で農家の次男として御成長されていた。大先生の御家族は何代も富裕な家庭であった。当時、日本の植民地下にあって、反日地下独立運動をなさっていた。特徴というと家風が特に人情厚く、良い家柄で三里以内に旅人が来たら、文家を訪ねた程で、誰でも良くもてなすので有名であった。
 大先生の家系から御家庭を紹介すると次のようになる。

お父様の御家庭

                  |5人
                  |3人―姉 
                 (|      )非惨な道を歩まれた。
                  |2人―妹
                  |
文善玉―――文教国―――文慶裕―――|―文 龍寿(兄)
          (お母様年上) |
                  |―文 龍明(弟) |―文 聖進(男) 1946.3.1
              1920.1.6| (文鮮明)   |
                       |      | 文 喜進(男) 1955.8.1
         ――           |――――|     (他界)1969.8.1
           |           |      | 文 誉進(女) 1961.1.27
           |→ 1943.1.6 韓 鶴子    | 文 孝進(男) 1962.12.29
  洪ハルモニ――                   | 文 仁進(女) 1965.8.14
                               | 文 興進(男) 1966.12.4
     子女様は、それぞれ異なった御使命を  | 文 恩進(女) 1967.11.23
          お持ちになっておられる。     | 文 顕進(男) 1969.5.25
                               |―文 国進(男) 1970.7.17

 ここで崔元福先生について少々触れる。復帰されたエバの立場にあり、真の御父母様の前には洗礼ヨハネ的エバの使命をお持ちになっておられるお母様と一体となられる事により、サタンがお母様に侵入できない。本来大先生のお母様がマリヤと同じ様に、その使命を果たすべき立場におられたが、摂理上それは崔先生が担当されているのである。現在、大先生の御家族や御親類の方はほとんど北韓で抑圧下され、蕩減の道を歩んでおられる。
 幼少の頃、大先生は善人か悪人かを見分ける鋭い感覚を持っておられ正義感は特別強いものであった。相手が大人であっても相手が自分の非を認めてわびるまでは、徹して闘われた。とても腕白坊主で負けず嫌いであった。相撲でも負けたら山へ行って木を相手にして倒れるまで頑張られた。1(原文はマル1)悪い人 2(原文はマル2)自分よりでっかい奴である。けんかした時負けたら翌日は弁当持ちで、隣村へ行かれるなど、学校など問題ではなかった。村中の噂で「この子は最高の悪党か、最高の善人になるかどちらかだ。」とされていた。従兄弟の文成均氏(工場長)のお話によると川でうなぎを取る時、にげるうなぎを追いかけるのに目をあけられたままで泥の中に飛び込んで穴の中に口をつけて入るやいなや、頭をつかむという目的に徹する性格でつかまえたら、よく近所にくばっておられた。そして幼少の頃から書道で漢文を習われ大きくなって、国民学校に入られて19才にて卒業され、中学校に進まれた。国民学校3年からすぐ5年に進級される程学校の成績は抜群で山の鳥の巣がどこにあるか全て知っておられる程で、運動においてもすべてが優秀であった。国民学校卒業式の答辞が校長はじめ教師の批判をなさり、欠点を正し更に今後の世界状勢の動向をのべられた。今日、その如くに世界状勢はなっている。又、大先生の生活が一般の子と違(?)10才前から3つ位の博士号をとられるように教育されてきた。しかし大先生御自身はそれが何の価値があるのだろうかと思いはじめられ最も価値ある生き方は何かというと、この世は偽り、盗人、病人、殺人罪と不幸と悲劇にみなぎっている。これらの問題を何とかして排除しなければならない。その為には救主となる事が一番世に貢献することであると悟られた。この頃から何にでも親心を配られるのが特徴で魚つりウナギとりなど熱心にされた。大先生には誰も勝てないと言われる程、ウナギでもネズミでも寝ずに追いかけられた。人を引きつける力が強く、15才頃には母親も完全に言う通りにさせた。ある日、ある時から突如として変わって行った。誰にも話さない。大先生はイエス様の本当の復活の日を知らなかった。しかし1936年4月17日(16才)の朝、深い祈りを捧げておられる時、特別の啓示を受けられた。それは大先生の前にイエス様が現われ、「私の使命は未完成で終った。どうか、それを完遂して欲しい。」と使命を委ねて行かれた。(丁度、イエス様が12才の時に神から啓示を受けたように、イエス様を通じてメシヤであることを知らされたのである。)この時、大先生は何回も遠慮されたが、思慮深く天の秘密を胸に秘めながら国民学校に通われた。学びながらも、何時も勉強も何もかもその目的に為に過ごされた。失われたみ言を復帰する事であると悟られ、真理の探求を始められて行かれた。それは普通の道ではなかった。前にも述べられたが、当時李龍道牧師の弟子達を中心とするイエス教会は、既成教会に属さない新しい派であった。この教会では恵みの深い祈りと貧民窟に全部持って言って施していた。ある時、礼拝で代表祈祷されている時、その祈りの深さに全員は驚き、ある婦人はおもわず泣いて抱きしめ、自分の家に下宿することを勧めた。そこには二人の娘がいた。この二人の女性は天的に重大なる使命を果たすべき使命があった。(イエス様が多くの女性との問題を解決しなければならなかった。)アダム家庭の蕩減として、イエス様の目的は、(?)子を求める子女にする為であり、子女は父母なしに生まれない。イエス様の理想相対が来なければ、父母として立つことができないのである。大先生は理想相対としてでなく、エバ復帰の為、婦人に訴えられた過去の男は女によって失敗した。しかし先生は女によって勝利してみせる。先生は婦人を何とか伝道しようとした。それは大先生御自身のためではなく、摂理上どうしても必要であった。しかし婦人は可愛さのあまり、自分の子供のように扱った。
人間的にしか愛さなかった。その事が摂理的にとってもマイナスであった。大先生はその婦人に「私とイエス様とどちらが偉いか祈ってみなさい。」しかし婦人は啓示を受けたが悟れなかった。大先生が日本から帰韓して来られてからも悟れず、今後悔いて「私のようになるのはいけませんよ。」と今日、教会で証詞してくれている。その家庭は、大先生が初めて愛された家庭であった。イエス様が涙の乾く間がなかったと言われるように、それ以上に大先生は、神の心情を思って泣き慟哭して涙のあまりお顔が変形され、太陽を見ることができず、外で他の人に会われても人から見て、それが誰かわからない程であった。又、二階で祈りつつ流す涙が下に落ちることさえあった。申美植先生が、「私は人生の問題で悩みました。」とうちあけた時、大先生は「私も人生の問題で悩んで泣いた。誰しも、これを私が解決しなければ、民族は、人類は、救われないと思って悩んだ。」と語られたといわれている。

(つづく)
 

 自由を失った人類は愛を失い、自由を失った人類生命の財産を得た。愛情の財を信じ、サタンを葬れ、栄光、栄光、栄光、わが主に栄光を帰(?)(?)。

 結局、サタンが侵入したこの秘密を知らなかったから人間をして、神にサタンを(?)(?)できなかった。この秘密を知った婦人は「血統的堕落の解決をしてやった」と言って、毎日神に感謝の歌を唄った。その婦人には長男がいて統一商会という雑貨屋をしていた(?)(?)(?)長男を嫁が相対基準を遣って真の父母が来られてその摂理を二人をたてて長子復帰させ、メシヤの家族に造られる家庭を象徴的に家庭内で摂理した。そうしながらその歌を毎日のように唄った。しかし、この長男夫妻は教えの通り行かず、人間的批判をした。結局はその嫁の失敗により、(?)(?)証しヨハネ的使命は果たせなくなり、その嫁は気狂いになって他界した。それで30年目にして、その摂理が停止になってしまった。

 その使命は今度は許孝彬さんという婦人に移っていった。韓国にはメシヤが生まれるという事で、この婦人を通じてイエス様の生前から一生涯を証す事になっていた。今までキリスト教は全世界に広がった。けれどもイエス様の心情を全々知らないでいる。何故、イエス様が馬小屋で生まれたか。ヨセフの家庭が責任を果たさなかった。ヨセフの不信仰で結局イエス様の生まれる場がなかった。ユダヤ人は400年間、メシヤを待望した国なのに、生まれたイエス様は外であった。一枚の着物もない宿る場もないその馬小屋で生まれ、あんまり寒くてたまらなかったというのである。イエス様が自分の生まれる当時の恨み悲しみを、この婦人を通じて説き始めた。金婦人は堕落論を中心として人間とサタンとの関係の秘密を語ったが、3番目の許婦人は、イエス様の恨み悲しみを解いて、本来、ユダヤの祭司長、ユダヤの幹部達がひれ伏して拝まなければならないのに異郷の予言者が来てひれ伏した。この恥、恨み、悲しみを初めて説き始めた。この婦人はイエス様が家庭的悲しみの中で、外で生まれ、何の基準もなく死ぬところだったが、神の息子であったので、生命が守られたといいながら、この婦人に自分の悲しみ、自分の一生涯の事を全部証しながら、これから婦人がやるべき使命は先ず、イエス様の恨みをほどかなければならないという完全なる願いを託し、これから韓国に生まれてくるメシヤに対しても、こういうふうになるようになった。

 それはいつも予言者を異端扱いして追い出した当時、日本の植民地にあったから警察官は啓示を受けたとか、霊通した信仰団体、人などがあると捕えて拷問にかけた。二番目の許婦人も長い間すごい迫害を受けていた。この許婦人の団体はいつも悲しさで泣きながら祈るので世間では嫌がって、憎む警察官は総(?)の(?)し政府まで迫害してきた。

 当時は大東亜戦争、満州事変や支那事変の頃で、日本の警察から相当の迫害を受けながらメシヤの来る事を予言していた。そしてイエス様の路程を知らないと(心情的体恤をしていないと)これから来るメシヤを迎える事が出来ないと言って子供の頃から、一生涯のイエス様の内的心情を婦人を通して証してくれた。イエス様が着たことのないダンディ服を作ってくれと頼まれて作ったり、食べた事のない食べ物を用意してくれと言われれば、沢山用意してあげていた。霊人にもその地上に未練の残った食物や服を全部やって捧げて「これから来るメシヤの為に準備せよ。」と言うので戦争終るまでの三年間に、イエス様の恨みをほどいていった。しかし大東亜戦争の末期頃、結局、日本警察によって留置所へ連行され準備された服など全部奪われてしまった。その頃全キリスト教が迫害下にあった。何故ならお前達が信じるキリスト教の神様と、天皇陛下とどちらが偉いか」といって牧師達に徹底的に尋問し「日本の主権下にいるのだから天皇陛下を拝め」と言って「ハイ」と答える者のみ許し答えない者は拷問した。この婦人は無職人で祈るしかないものだから勇敢に答えた。そしたら結局、死刑を宣告され、1945・8・18に「寺社参拝」の拒否者は全部死刑される日となっていた。ところが8・15終戦だったので、死を覚悟していた牧師達は解放された。再び帰ってメシヤの為に祈り服を作りはじめた。最高の服を用意する為に信者達の全財産をしぼって土地を売り、宝を売って三年間そうして作っていたメシヤの服がトラック一台分あったが奪われてしまった。鶴子お母様のお母様が20才の時からこの教団に入っておられ、現在は60才になっておられるが、当時はメシヤの為に服を縫っておられ、鶴子お母様は6才の時からお母様に背負われて、この教団に通われておられた。お母様は子供の頃からクリスチャンで鶴子お母様お一人を一生涯かけて誠意を尽して、お育てになった。お身体は地にあるが、ほとんど今も霊界に通じていらっしゃって御父母様の御家族を中心として大きな役目をもたらされ、祈祷生活をされている。相当迫害中ろくな食物もたらず、日本の迫害、共産主義の迫害、統一教会での迫害まで大きな御苦労をされて来られた。この教団は天に導かれ縫い方まで示され、3、4、7、12回づつやって途中でお客様が来た時はもう一度祈って聖別してからやらなければならない。そうしないと絶対、その服は天におさめられなかった。寸法は天から示される子供の時の寸法、10代、20代、30代、40代までなされた。又、お母様は教会にこられて大先生に服を捧げたり、又、40代の時、南から38度線を越えて服を持って行かれたその時、全然寸法を知らずに縫った服の寸法がぴったり大先生の御身体にあったという事である。この様にしてこの教団は2000年前にはメシヤを十字架にかけたが、今度はメシヤに絶対苦労かけてはいけないといって「聖誕時分から33才までの着物、その他西洋式東洋式を全部備えよ」啓示を受けて備えをなしていた教団で、啓示を受ける度にお腹が妊娠7、8ヶ月位のように動く。その後啓示があるというので、「腹中教」と名付けられた。


(つづく)