漢文は要らない、漢文は『国語』じゃない、っていうのは、このブログでも何度も書いてきた。
「平仄無視して、読む順番勝手にひっくり返して、日本風の音読みで、時には訓読みにして、原文にはないカタカナくっつけて、漢詩を味わうなど。異文化の芸術に対する冒涜。」
とかって。
あるいは、
「漢文は『国語』じゃないだろ。よその国の、昔の文章だよ。
古代ケルト語の叙情詩が『国語』の授業の対象じゃないのと同じ。なんであんなもんを『国語』の中で教えられないといけないのか。」
それは、古文だって同じ。
あんなもん、中学生や高校生に理解できるわけがない。
だってさ。
あれ、「古代」の「京ことば」の「文語」だよ。
現代の京ことばの口語、「コーヒでも飲んでいかはりますか」ですら、その本当に意味するところはほとんど理解できないのに、なんで古文なんか理解できると自惚れるんだろう。
くり返すけど、漢文も古文も、現代日本語に翻訳したものを鑑賞すれば、一般教養としては十分。
ただし、漢詩は、どうやっても無理。