正法寺山砦


『別名』

正法山城


『所在地』

千葉県市原市椎津545-14


『城主』

不詳


『遺構』 

曲輪、土塁、堀跡


『城郭形態』

平山城


『駐車場』 

なし 


『歴史』

正法寺山砦の城主は不詳ですが椎津城の出城として機能していたと言われています。




堀跡

稲荷神社

椎津城


『別名』

城山 


『所在地』

千葉県市原市椎津263-2


『城主』

真里谷氏、里見氏、後北条氏


『遺構』

曲輪、土塁、堀跡


『城郭形態』

平山城 


『駐車場』

なし 


『歴史』

椎津城は応永年間(1394〜1428)に三浦貞勝によって築城されたという説と明応年間(1492〜1501)に真里谷武田氏によって築城されたという説があります。

天文21(1552)に里見義堯・義弘によって攻められ落城しました。

その後、里見氏と後北条氏による椎津城の争奪戦が繰り返され後北条氏の家臣・白幡六郎の居城になりましたが天正18(1590)に起きた豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡すると徳川家康によって攻められ落城し廃城となりました。


登城口

馬出しか❓

本曲輪



土塁 

本曲輪 

本曲輪 虎口

曲輪

解説板

玉造城


『別名』

轟城 


『所在地』

茨城県行方市玉造4563


『城主』

玉造氏


『遺構』

曲輪、土塁、堀跡


『城郭形態』

平山城


『駐車場』

あり(大山守大塲家郷士屋敷) 


『歴史』

玉造城は大掾氏一族・玉造氏の居城だと言われています。

天正19(1591)の2月9日に玉造重幹を含め行方・鹿島両郡(南方三十三館)の諸領主が太田城に招かれた際に佐竹義重・義宣父子により謀殺されました。 

その後、玉造城は佐竹氏によって攻められ落城し廃城となりました。


本曲輪とニノ曲輪間の堀跡

本曲輪 土塁

ニノ曲輪 切り岸



ニノ曲輪

三ノ曲輪


本曲輪 切り岸と解説板



大山守大塲家郷士屋敷

解説板