おはよーぐると。
もりやです。


ブログを始めたよ。
と知人に言ったら
読んだよ。

と言われました。
感想を聞いてみたんですが、結論僕はひねくれているらしいです。
僕のひねた感じがバッチリ出てるそうですよ。

そっかー僕ひねくれてたのかー。へへへ。



いや知ってんだけどね。
でもどうしてここまでひん曲がって育っちゃったんだろうかと思いまして。
比較的まともな両親とまともな友人、親族に囲まれ、特に荒れているわけでもない小学校中学校高校と通ってきたんですが高校生の時点ではすでにだいぶひん曲がりくねっていました。

昔は素直で良い子だったと思うんですけどねえ。覚えてはいないですけれども。
育ってきた環境によってその人が出来上がっていくわけですけれども、いかに環境を整えようがその人間が本来持つ性質を変革することは出来ないッて言うことなんですかね?
でももともとこんな感じでは無かったと思うのです。もう少しいろんな意味で普通だったと思うんです。

マイひねくれエピソードの中で、一番古い記憶は中学校の三者面談の時のことです。
三者面談の為に生徒たちには学校生活はどうか、とか勉強はどうかとか幾つかの質問に事前に回答しておりました。
その時に『僕には友達が居ません。』
という類いの回答をしておりました。
僕将、痛い。

そんな痛々しいところわざわざ晒したもんだから、もちろん先生に突っ込まれましたね。
その時僕はこう答えたのです。

『僕はあいつのことを友達だと思ってるけど、あいつは僕のことを友達だと思ってるか分からない。僕が思うに友達と言うのはお互いを友達だと認識できている間柄の人たちのことだから、僕とあいつは友達だとは言えない。』

可愛くないガキですね。

あいつのことは好きだし、友達みたいに付き合ってはいて、多分あいつも友達だと思ってくれているかもしれないけど、もしかしたら友達と思ってくれていないかもしれない。
だったら僕があいつを友達と言うことはあいつにとって迷惑かも知れない。

みたいな思考回路だったと思います。
どうしてこんな事に……


今となってはこんなまどろっこしい思考に陥った原因はわからないですが、この時点ですでに土台は出来上がっている感は有りますね恐ろしい。

しかしまあそこからよく持ち直したものです。
そのままの方向で固まっていたらと思うとぞっとする。


どうしてあんなことになっちゃったのかは思い出せないですが、きっと今の僕の大部分を占める何かがあの頃にあったんでしょうね。
必要不可欠なモノだったと思えれば、黒歴史も少しは価値のあるモノに思えてきますね。



何だ今日の記事は。
どうももりやです。
いろいろあって連投。
むしろなにもないからこその連投。


昔から貧乏貧乏詐欺にあってきました。我が家で。
実際貧乏だったのかどうかは知りませんが、事あるごとに諸々我慢してきました。
と言っても正直なところ全く何も買ってもらえなかったわけでもないし、どっちかといえば自由な方だったのかもしれないけれども。

まあそんなわけで、あんまりこう何かを集めたりとかしたことがないのです。

例えば今でこそ自分で働いてお金稼いでますから好きな漫画とか集めたりしてますが、小学生中学生の頃はほとんど漫画なんて持ってなくて、漫画を集められる裕福な友達の家に行って話もそこそこに漫画を読み耽るなんてことはザラでした。
その頃の悲惨なエピソードとしては、夏休み親の実家に帰るときに新幹線とかで長距離移動をするわけですが、子供ですからなかなかそんなに長い間静かにしていられませんから保護者としては何かしらの暇つぶしを用意せざるを得ません。
かと言って事前に用意しておいて移動前に飽きられたら困りますんで必然入手は乗車直前、すなわち駅のホームのキオスクとか、エキナカの小さめの書店で漫画を買うことになるわけですね。
急にそんなところに放り込まれて漫画買ってこいと言われてもどうせこういう時しか買えないのは分かってるから有名な漫画の1巻なんて買って行ったってしょうがないし、途中の巻買うなんて余計にありえない。
困った守谷少年が取った行動は、『週刊誌を買う』でした。

単行本の途中の巻どころかたくさんの漫画の途中の一話しか載ってない週刊誌を買っていた理由は、いろんな漫画が読めるからでした。
その当時ジャンプとマガジンとサンデーの区別もついて無かったし、そもそも週刊や月刊という概念も理解できて居なかったのでどれを買っていたのかは皆目検討がつきませんがとにかく週刊誌っぽいやつを買ってました。
前後の繋がりも登場人物も設定も敵味方も全くわからないけど、なんかいろんな話が読める。これは意外と楽しかった。
わからないからわからないなりに、前後の流れを考えたり味方だか敵だか分からない奴の能力を考えたりしてました。
あ、ここでこういう描写をするってことは以前こういうことがあったんじゃないか?
とか
この雰囲気だと恐らくこいつはこいつが好きだな?
とか
類推して楽しんでました。
答え合わせなんかしようと思ったことも無かったので正解できてたかはわかりません。
今みたいにインターネットが発達していなかったからとりあえず検索、みたいな発想はありませんでした。
それはその場限りの妄想で、何度も何度も話を読み返していろんな想像をしました。


なんかこう貧乏も悪いもんじゃないかなって思えてきたね。
なんにもないなら無いなりに楽しむことは出来るってことですね。


嗚呼懐かしき少年時代。
あの頃に戻りたいとは思わないけれど、楽しかったような気がする。



貧乏だから牛乳は一日コップ一杯だけでした。
どうももりやです。
ふと始めようと思って始めてみましたブログ。
ふと辞めようと思ってやめるかも知れません。

っていうかすでにやってたんだけどやめちゃったんだよね。
もう何でもかんでも続かない。何でもかんでも。

長く続いたものなんてちっちゃい頃からやってた水泳と、それこそ音楽位のものです。
水泳なんてのはほとんど強制みたいなもので、習い事でしたから・・・
昔の僕は親の言うことには逆らえないものだと思っていたので、辞めたいと思うことは多々あれど辞めようとしたことは無かったように思うのですね。
辞めるっていう選択肢がないから後半はサボったりだいぶ遅れて行ったりしてました。駄目なやつですね。

そんな中、音楽に関しては本質的に辞めたいと思ったことは無いですなー。
音楽活動を続けていくことに関してはもちろんたくさん葛藤はあるし、いつでも辞めるという選択肢が頭の中縦横無尽に東奔西走しています。
だけど、もう音楽を一切合切辞めたいとは思わないのですね。

思わない。思わないのは確かなんだけど、だけれども、例えば何かのきっかけで、それこそふとした瞬間に『音楽活動』を辞めてしまった時に僕は『音楽』を続けていくのだろうかと思うことが有ります。

音楽活動をしているから音楽をやってるのかそれともその逆なのか。
時々分からなくなたりするのです。
もちろん音楽が好きだし、僕の知っているものの中で一番僕にとって大事なものだから音楽活動を始めようとしたわけですからかけがえの無いものであることは間違いない。
ただ、かけがえがないからといって後生大事に持っていなければいけないというわけでもないと思うんです。
音楽ってのは身近に存在しているものだし、プレーヤーとして音楽をやっていくっていうのは僕にとって必須じゃないかもしれない。

それが今の僕の一番の恐怖。
これほど自分の中で大きく育っている要素が、丸々抜け落ちたとしてもそのまま僕という人間が存在し続けるかも知れないという恐怖。

もしそれがまかり通るのだとしたら、今まで人生賭けてやってきた音楽ってなんだったんだろう。

そう思ってしまったら自分で自分を否定してしまうことになるのです。
そうならないために、もしくは音楽が僕にとって抜け落ちてはならないものだから、僕は音楽を続けるんだと思います。

後者であることを祈るばかり。