ファンマーケティングで1人起業家が年商3000万円になる方法 〜コミュニティビジネスからビジネス設計、出版ブランディングまで〜 -28ページ目

ファンマーケティングで1人起業家が年商3000万円になる方法 〜コミュニティビジネスからビジネス設計、出版ブランディングまで〜

悦る商人“たなかつ”こと田中克成が、ファンマーケティングを活用して8ケタの商売を連続して起業するための『教え』を綴ってます。自分サイズの小さなコミュニティからはじめて、ファンを応援し、応援され、応援し合うコミュニティビジネスのはじめ方・考え方。

「誰のために強くなるのか」


リヤカーで東京を発つ4ヶ月前から、極真空手の道場に通った。
その道場の師範は、塚本徳臣先生。
世界最年少と、世界最年長での2度にわたり世界を制した人だ。
僕がお世話になっている先輩経営者たちがこぞって通っていて、人として非常に素晴らしい方との評判だったので、4ヶ月間、僕も入門させてもらうことにした。


塚本師範は、僕と同じ長崎県の出身であったので、「お前は道場生というより、同郷の可愛い後輩だな」と可愛がってくれた。評判通り、人としての在り方が素晴らしく、真に強い男の真髄を、言葉だけではなく一挙一動で見せてくれた。
親切で、丁寧で、優しく、思いやりに溢れ、道場生一人一人に目配り気配りを忘れず、叱り方にも愛があり、誰かに注意を促す際にも、別の事例を話して聞かせ本人の内側から気づかせる。反省を常とし、礼節を重んじ、「空手道」の名の通り、「道」を歩んでおられた。


入門して2ヶ月が過ぎる頃、どうやってその人間性を手にしたのかをお茶を飲みながら伺わせていただける機会に恵まれた。


師範の少年時代はご多聞に漏れず札付きの悪で、長崎でも有名なヤンキー校に進学した。その高校でも最強を誇り、卒業後は上京し極真空手の名門である道場に入門した。世界を相手に戦う先輩たちの洗礼を受け、長崎で最強を誇っていた鼻っ柱は入門初日で粉々に砕かれた。持ち前の負けん気で練習に励み、21歳で世界最年少で世界を制した。


ところが、そのことが思い上がりを招き、以降、世界で勝つことができない十数年を過ごすことになる。その間に、極真空手の創始者である大山倍達先生の死を境に極真空手は分裂。所属していた道場と、公私ともにお世話になり憧れでもあった現真極真会代表の緑健児師範とが別々の道に進むことになり、一年間、日本を離れオーストラリアに武者修行に出ざるを得なくなった。


帰国後、緑代表が新たに立ち上げた新極真会に所属し、世界一を目指して稽古に励んだが、「道」を見失い「術」の向上にのみ取り組んだ塚本師範が世界の舞台で日の目を見ることはできなかった。
「塚本はもう終わった」そんなことが巷ではささやかれ始めていた。


転機は結婚だったそうだ。「結婚で完全にあいつは終わったな」と言わせてしまっては男としても終わる。「あいつは結婚してから本当に強くなった」と言われるぐらいにならなければ。初めて、自分のためではなく誰かのために戦うという心境を持つことができた。長男を授かり、益々その想いは強くなった。
「なぜ勝てないのか?」本を読みあさり、勝てない理由は精神修養であることにたどり着いた。


幼少期からの行ないの全てを一つひとつ反省し、反省するだけではなく、少年時代にご迷惑をかけていた方がたにも謝罪して回った。道路にゴミが落ちていれば、このゴミは昔に俺がところ構わず捨てていたゴミだと、ゴミ袋を片手に拾い集めて回った。反省を常とすることで、目の前の人への礼節にも重きを置けるようになっていった。


37歳、最年少で世界を制してから16年もの月日が流れていた。今度の大会で勝っても負けても選手生活は引退すると決め、背水の陣を敷いて挑んだ集大成の世界大会。
その大会で、前人未到の準決勝までオール一本勝ち。決勝では日本の選手と戦い判定で勝利し、自身二度目の、それも史上最年長での世界王者となった。


史上最年少と史上最年長で世界を制した塚本師範の記録は未だ破られていない。塚本師範は僕に言った。
「同じ世界制覇だけど、一度目の優勝と二度目の優勝とではまったく質が違う。一度目は血気盛んな若さも手伝って「技」で勝った。でも、二度目は「天地一つ」となって勝たせてもらった。二度目の優勝でようやく、「空手道」の入り口に立つことができたよ」


「誰のために強くなるのか。人は自分のためだけに強くなろうとしても、その限界は所詮、人ひとりの枠を出ない。でも、自分以上に大切な誰かのために強くなろうとしたとき、自分の限界をはるかに凌駕して頑張ることができる。自分以上に大切に思える人を増やせば増やすほど、人はもっと強くなれる。今は選手生活は引退して指導する立場にいるけど、先ずは、道場生全員を自分より大切な存在として思える人間になること。それから、空手界全体を自分より大切に思える器になること。それが、今の俺が目指している「強さ」の本質だな」


人は自分のためには頑張れないが、誰かのためなら頑張れる。その誰かの輪を拡げていくことが、男としての本分なのではないかと思う。戦いにおいて、塚本師範のような強さを手にできる者はごく一部の人間に限られてしまうだろうが、それぞれが志す業界で、人として、男として強さを育んでいくことは可能だ。そうなれる自分を決して諦めないことだ。
「目的はなくても前には進める」


昨日は、貝印株式会社様での企業研修を行なわせていただいた。僕が開発したチームワークトランプ『GIFT』を使った研修なのだが、純粋にゲームを楽しんでもらう中から大切なことに気付いてもらえたのではないだろうか。


目標設定の大切さ、そしてその目標をいつまでに絶対に達成するという本気のコミットが、最終的な到達点を大きく左右する。個人の活動であれば、共有は必ずしも必要ではないが、チームの目標となるとあらゆる細かな部分まで共有が不可欠になる。


「僕は(私は)こう思う」ということをしっかりとシェアすることも大切なことで、その意見が合理的であれば皆も共通認識として持てば良い。その意見が仮に非合理的であったなら、本人がそのことに気付けるだけでなく、同じように考えていたチームメイトや、また別の第三の視点を提供するGIFTにもなり得る。


意識が「チーム全体」から「個」に向くと、活発な意見が交わされなくなったり、“配慮”ではなくまったく不要な“遠慮”が生まれてしまったりと、チームは結束を乱し始める。その時に何が大事かと言えば、「何を達成したいのか?」という明確なゴール設定だ。ある時点においては、「何のために?」という目的そのものよりも目標設定が推進力を発揮することもある。


以前、ある青年が「超進化論」の記事を目にして僕が歩いているところに相談に訪れた。
彼が言うには、ある講師を招いて数百人規模の講演会を主催している。これを成功させることができたら、独立して自分のお店を出すつもりだと。


ところが、1/3の集客が終わったところで目的を見失ってしまったのだと。この講演会を成功させたからといって、本当に自分のお店を出したいのかわからない。そんな曖昧な状態では、講師にも、ボランティアで手伝ってくれている運営スタッフにも、来てくれたお客さんにも申し訳ない。自分は間違ったことをやってるんじゃないかと。


僕は彼に「そのお呼びする講師と講師の話は、関係者や来場者にとってそんなに価値がない話をする方なの?」と尋ねると、「そんなことはない、この講師は自分の師匠であって、自分だけじゃなく多くの人の人生を変えてきたんだ」と言った。


「自分の店を出したいか出したくないかは切り離して考えて、この講演会そのものはやりたいの? やりたくないの?」と尋ねると、「やりたいです。多くの人に聞かせてあげたいです」とのことであった。「じゃあ、やるだけだね」と僕が言うと、「でもぉ…、」といまいち腑に落ちていない表情を浮かべた。


「最初に講演会をやる目的が、成功させて自分の店を持つことだったので、その目的が分からなくなってしまったかから、何のためにやればいいのか…」



要は、当初の目的を見失ってしまったので、講演会をやる動機(モチベーション)までどこかに消え失せてしまったというのだ。


「目的なんかなくても前には進めるぞ。先ずはやらない言い訳、やれない言い訳をやってる自分をしっかり受け止めること。そんな自分って、男としてカッコ悪いよな。目的なんかなくてもやりきる奴のほうが断然カッコよくねぇか?


俺な、毎日30~40kmリヤカー引いて歩くんだよ。この活動の目的は「必要な人に届ける」ってこと。でも、確実に4日間は誰にも会わない山の中を独りで歩くこともある。山を越えて町に出たからといって、必要な人に会えるかどうかなんてわからない。


そんな毎日をさ、「必要な人に届ける」って目的があるから2年近くもやって来れたと思う? 残念ながら、この2年間でそんな崇高な目的を思い出すことなんて全体の1割にも満たないよ。
「この本を100万部にする。」「売りで5万部売る」「日本一周する」って具体的な目標があるから引き続けられるんだよ。目標のほうが目的なんかよりよっぽど今日も歩く理由をくれてるよ。だから今日も30~40km歩くと決めて、毎日達成する。


君は目的がブレブレであるにも関わらず、やりたいと思っている明確な目標がある。ラッキーじゃね? 途中で目的がわからなくなったけど、やると言った目標をやり切った。…って奴、カッコよくねぇか? 俺はカッコいいと思うな。迷うが何しようが「やる」と言ったことはやり遂げる奴、男としてイケてる。


残り2週間、この講演会に全力を出し尽くした後で、その時に、やっぱり店を持ちたいのか、やりたいことじゃなかったのか、或いは、次のやりたいことが見つかったのか、いよいよ分からなくなってしまったのか、その時の正直な気持ちを知れたらいいんじゃないかな。
1つのことをやり切った時に出てくる本音は、どんな答えであっても逃げじゃなく前進だよ。先ずはその本音を知ることを目的として、あと2週間をやり切ったら然るべき答えがあると思うよ」


結局、彼は残り2週間で満席近くを集めきり、その上で「今の職場でもう少しやり切ってみる」という結論を出した。


今のステージの今のレベルで出し得る目的が生涯ブレない目的だと思い込むのは、はっきり言って大間違いだ。向上心が強ければ強いほど、様々な経緯や体験によって目的は昇華し続ける。その過程で、ある時点では信じて疑わなかった崇高な目的が間違いだったと気付き、ゴールが消滅することもある。


その度に、「目的を見失ったから進めない」とウジウジメソメソするのではなく、まだ目的を見失う前に達成するとコミットしていた目標に向かって進むことだ。


「決める(コミット)」とは、どんなことがあろうとも「達成する」と覚悟することだ。
どんな障害物があっても達成する、
それを達成することで不幸になると分かったとしても必ずやる、
その不幸に人を巻き込むことになろうがやる、
やりたいことじゃなかったとしてもやり遂げる、
その覚悟を持つことが「決める(コミット)」である。


それをやり遂げたとき、そこ場所から広がっている景色が、次にあなたが進むべきステージだ。



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「比較されてこそ自分がわかる」


「誰かと比べる必要はないよ」「自分は自分だよ」という言葉にほっとした経験は誰しも一度や二度はあると思う。事実、他人との比較によって自信を失ってしまうという時期はある。僕が講演会やセミナーなどで必ず話す「超進化論」という成長のバイオリズムで言う「停滞期」には、必ずそうした感情が伴う。


「他人との比較」これは、2人以上の集団生活を行なう動物にとってはやむを得ない。この比較の世界から逃れるためには、相当の自己修養が必要となる。この世は比較の世界だからだ。比較から完全に離れることができたら、今生で生きる意味はある程度終わってしまっているのではないかと思うほどで、お釈迦さんのように解脱でもしない限り不可能なんじゃないだろうか。


猿の世界にだって比較はある。ボス猿の前では、配下のオス猿たちは自信を失くすし、メス猿だって強いオスと交尾する。猿の世界にだってイケメンはいるだろうし、ワイルドなオス猿がモテてるんじゃないだろうか。僕の実家には3匹の犬がいるが、彼女たちも飼い主がいずれか1匹を可愛がっていれば分かりやすく拗ねる。


ましてや、万物の霊長とまで言われるほどに知恵の発達した人間である。比較しないわけがない。「比較」から離れ楽になろうとしても、なかなかそうはいかない。「比較」を悪とせず、それにさえも意味があると捉え受け入れることが、「比較の苦しみ」を軽減できる唯一の道なのではないだろうか。


各地で講演を行ない、懇親会などで僕に相談をしてくれる方々は大勢いる。耳を傾ける中で、2代目の経営者で、年商数百億のグループ会社で、僕より10歳も年下で、青年会議所の会長で、…なんてことがわかると、「僕に答えられることなんてないんじゃないか?」と一瞬にして自信を失うこともある。


「偉いも偉くないもないよ」といくら人間平等論を唱えても、偉いも偉くないも実際の世の中には確かに存在しているわけで、そう断言する人に限って偉い人の名前が会話の端々に頻繁に出てくるわけだから、現実問題、誰の中にも偉い偉くないの比較は存在する。


2代目の経営者で、年商数百億のグループ会社で、僕より10歳も年下で、青年会議所の会長で、と聞くと、僕より計り知れないプレッシャーに日々耐え、自分のことより会社のことや従業員のことを優先して考えなければならない立場にあり、それも2代目、3代目となると一個人としての「これがやりたい、あれがやりたい」の前に、親から託された会社代表者としてのバトンを運ぶことに尽力しなければならず、従業員やその従業員の家族の人生をも託され、重圧の中、今日まで必死に守り抜いてきたのだから、その責任感たるや勤め人や個人事業主や初代とは比べものになるはずもなく、純粋に「偉いなぁ」と思う。


よくよく話を聞いていくと、そうした彼らが僕にしてくる相談内容というのは「お金」のことでもなければ「経営」のことでもなく、「人間関係」であったり「自分自身」のことであったりする。「何のために生まれてきて、何のために生きるのか?」という根源的な一個人としてのテーマと向き合う暇さえもなかった悩みを抱え、年がら年中そんなことばかりを考えている僕に答えではなく、何かのヒントを得ようとしているわけだ。


僕は、僕の体験談や調べてきたことの中から、その方の悩みを解決するヒントなるものを選出してお伝えするしかないのだけれども、何の解決の糸口も提供できないと、率直に「悔しい」と思う。だから、「頑張ろう」と思う。比較があるから次の基準が生まれるわけで、そうした比較の繰り返しの中で悩んで苦しんで、だからこそ、自分の現状を把握し、努力し、成長できるのではないだろうか。


人それぞれだけど、僕は比較から離れ楽になりたいとはまだ思えない。もっと成長したいし、今生という限られた期限の中で自分がどこまで成長でき、最終的にどこにたどり着けるのか、その限界を見てみたいと思う。進むべき道と合っていようが、合っていまいが、今は今のステージで湧いてくる自分の感情をもっと素直に受け取っていい。



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「辛いときには下を向け」


昨日は、「状態は選べないが、態度は選べる」ということを「泣きっ面に蜂」という諺を引き合いに出して、「負の引き寄せ」なるものを話したのだが、今日は一見するとその真逆に思えるような話だ。


2年間で約4,700km、39都府県を踏破した。リヤカーには本を常備300冊積んでいるから、重量は100kgになる。平地ではその重さをさほど感じることもなく歩けるが、坂道となるとそうはいかない。標高600~1000mの峠を越えるとなると、半歩ずつしか足が前に出ない山登りもある。


前を見ていても景色はほとんど代わり映えしない。視界に入っている上り坂の頂上を目標に頑張るのだが、その目標まで登るとさらにその先にエンドレスな上り坂が見えてきてげんなりする。そんなことを8時間も繰り返していたら、ましてやそれが数日続くとなると、さすがに心も折れかける。


気合と根性だけで引き続けるしかないのだが、気合も根性も自然な状態の心境ではないから、そんなに長続きするものでもない。正直、萎える。萎えるが、萎えたところでここは山の中。完全に萎えてしまっては、ただの遭難だから、何とか自分を誤魔化しながら引くしかない。


「辛いときには前を向け」「辛いからこそ前を向け」と自分に言い聞かせながら歩くのだが、ある日ふと、「それって俺に主導権ないよな?」と思った。「これが正しい」という自分以外の誰かが決めた正解に従うことは性分的に納得いかない。


「よし、徹底的に王道の真逆をやってやる」と、下を向いて歩くことに決めた。
足元が視界に入った。半歩ずつしか足が前に出ていない。しかし、半歩ずつでも確実に進んでいた。一歩一歩、ならぬ、半歩半歩の前進だ。この半歩を積み重ね続ければ、遅かれ早かれ頂上には必ず着く。前を向いてようが、下を向いてようが、ご機嫌だろうが、不貞腐れてようが、この半歩を続けていれば絶対に頂上にはたどり着くのだ。今まで辛くて辛くて仕方なかった心と身体も、ふっと楽になった。


「俺は下を向いて進む。前を向きたくて向きたくて仕方なくなるまで、絶対に前は向かない」
と決めて歩みを進めているうちに、無性に前を向きたくなる。ギリギリまで我慢して、前を向いた。「おぉ~、何気にイイ景色♪」


その後も下を向きたいときに下を向き、前を向きたくなったら前を向く。
という当たり前のことを繰り返していると、案外、アッサリと峠を越えることができた。


リヤカー行脚を通して学んだことは、人の内面には3つの声がある、ということだ。

1つは、身体の声。
1つは、心の声。
1つは、頭の声。

大抵の場合、心の声と身体の声の意見は一致しているが、頭の声だけがそれらの声に反発しようとする。「気合だ、根性だ、これが正しい、あれが間違い」と言って、まるで不登校の子どもを一方的に叱り付けるように、頭の声が心と身体の声を否定する。


短期的に心と身体の弱気に発破をかけて、やる気を奮い立たせるのであればそれでもよい。が、長時間もそれを続けることは現実的ではない。普通に、それが対人関係であったら、鬱にもなりかねない。鬱にもならずとも、自信を奪い逆に気力を削がせることにもなるだろう。


好調なときを善しとして、不調なときを悪とするジャッジメントがそこにあるとき、前に進むことを阻害する。好調も不調もあって然るべき、と受け入れるときにジャッジメントはない。その結果に生じるすべてに自分自身で責任を持つ主導権が握られているときには、それが正解だろうが不正解だろうが、人は前に進める。


そして、何より、3つの声が一致したときには、人は自然の摂理に順っていわゆる「王道」なる言動に添いはじめるものだ。


仏教のお経の中でも最も有名な「般若心経」は、「有るでもない、無いでもない。無いでもない、有るでもない」という非常に曖昧な「空(くう)」という物事の理(ことわり)を説いている。


また、老子道徳経は、「道の道とすべきは常の道に非(あら)ず。名の名とすべきは常の名に非ず」という書き出しから始まるが、これは「これこそが永遠普遍の真理だと言えるものは、真実の真理ではない。これこそがこの物の名であるという名称は、その物の真実を表す名称ではない」という意味だ。


つまり、どんな真っ当な教えも、正しいが間違い、間違いだが正しい、のであって、「こうでなければならない」という教えに価値観や視点を支配されることは、それらに主導権を奪われているということだ。


「清濁併せ呑む」とは、清水にも濁りはあり、濁水もまた清らかな反面がる、という物事の理を説いているのであって、正しいが間違いである手段を選ぶとしても、間違いだが正しい手段を選ぶとしても、今の自分がどちらを選びたいのかを心に問うて、その答えに全責任を負って頭でも寄り添ってあげることが、真理の道に一歩近づく最善の道なのだと思う。


辛いからこそ前を向け。そして、辛いときには下を向け。
「正解」や「間違い」に捕われる必要はない。




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「状態は選べないが、態度は選べる」


よく、自己啓発などで「辛いときには前を向け」という根性論というか、気合論というか、要は「辛いときに下を向くから余計に辛くなるんだ」という気の持ち方を示した教えがある。かの松下幸之助さんなんかもよく言っていたそうだから間違いはないはずだ。


氏は、出先の巡業でとある経営者に「儲かってまっか?」と不景気で儲かっていないことを重々承知の上で聞いたそうだ。すると、その経営者は「儲かって儲かって忙しゅうおま!」と満面の笑みで即答した。
「陰気臭い顔しとるやつのところに、運は味方しません」とそのくだりを結んでいたが、これもやっぱりその通りだと思う。


「泣きっ面に蜂」という諺があるが、この意味、「悪いことは重なる」という意味だとばかり思っていた。しかし、いろいろ経験を積ませてもらうと、ほんのちょっと違った視点から意味を感じ取れるようになった。


この諺、引き寄せの法則そのままなのだ。良いことを引き寄せることだけが、引き寄せじゃない。「犬嫌いに犬が噛み付く」とか「怖がりに幽霊」なんてことも引き寄せなのだから、泣いてばっかりいるから、蜂に刺されるなんて不運も引き寄せちゃうんだよ、という教訓なんじゃないかと思う。


以前に、中国武術の世界チャンピオンの方と縁があり、太極拳を教わっていた時期があった。何ていう構えだったかは忘れてしまったが、一番最初に教わったのは、胸の前で左右の両手の親指と親指、人差し指と人差し指をくっつけて三角形の空洞をつくり、「空気椅子」のような状態で静止する、という構えであった。


地面に対し、踵から膝までが垂直に立ち、膝から太ももの付け根までは地面に水平、腰から頭のてっぺんまでが地面に垂直。これがキツイ。普通の人は体幹が整っていないから後ろに倒れないようバランスを取るのも難しいのだが、5秒もすると太ももが真っ赤になるほど熱くなる。


「うぅっ!」とか「あぁーーーっ」と声が出て、顔もそれなりの表情にどうしてもなってしまうのだが、その世界チャンピオンの先生は、容赦しない。容赦しないというか、


「そのきつそうな表情は、何のアピールですか?」


とニコニコしながら聞いてくる。


「身体がきついことと、それを表情に表すこととは関係ないですよ。
 アピールが続くうちは、もっとやらせてくださいって意味だと思ってこのまま続けますね」と。


当然、早く終わって欲しいから、みんな涼しげな表情を浮かべられるよう努力するのだが、きついものはきつい。でも、きついと言って表情に出しているうちは本当に終わらないから、涼しげな表情にチャレンジし続けるしかない。


そうこう自分自身の表情と格闘し続けるうちに、身体と連動するもんだと思っていた表情筋を切り離すことができるようになってくる。半年が過ぎる頃には、ほぼ全員の生徒が、涼しげな顔で究極の空気椅子のまま静止できるようになっていたのだ。太ももは激しく痙攣していても、だ。


不思議なもので、身体のきつさと、表情を区別できるようになると、きついはきついのだけど、「うぅっ!」とか「あぁーーーっ!」とやっていたときと比べ、きつさの質が全くの別物になっている。


僕が7年間慕っているメンタルコーチ馬場真一さんにこのことを話したとき、
「状態は選べないが、態度は選べる」
ということを教えてくれた。


どんなに過酷な状態であったとして、態度は自分自身で選べるのだと。
主導権を自分以外の人や物や事に譲ってしまったとき、人は迷う。迷いから弱気になり、或いは、不貞腐れるなど、泣きっ面に蜂を引き寄せる態度になってしまうのである。


結局、すべての起こることは自己責任。
不運が続く理由は、手放す必要のない態度の主導権さえも自分以外に明け渡してしまっているからである。


目の前の人や、目の前にある作業から、自分自身の態度を意識的、かつ積極的に選んでいこう。意思が作り出す人生の主導権をしっかり握っていくためのトレーニングだ。



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