泰時は死んだ頼朝を憚って頼時から改名したのではないだろう。(大河ドラマ考368鎌倉殿26-29) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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前回の投稿を受け、大河ドラマ考再開です!

(1)まずは、第26回から第28回の概要を

・第26回「悲しむ前に」(7月3日本放送)では頼朝が逝去。跡継ぎの頼家の妻は比企の娘だったところを、源家の親類に当たる賀茂(足助)氏の娘も娶ります。両妻からは男子が生まれるのですが、母の家格から賀茂氏所生の公暁が嫡男であるべきところを、比企の圧力で比企氏所生の一幡が嫡男となります。そして、これは源氏将軍家の滅亡の遠因となります。

 

・第27回「鎌倉殿と13人」(7月17日本放送)では、若き鎌倉殿・源頼家(まだ将軍にはなっていない)の未熟さに不安を感じた御家人たちが13人の合議メンバーを決定。怒った頼家は若手(5人衆ともいう)を集めて対抗の姿勢を示します。

鎌倉殿の13人ではなく、対立構造を踏まえて鎌倉殿「と」13人とはよく言ったものです。

 

・第28回「名刀の主」(7月24日本放送)では、13人での合議が開かれる(史実上は開いたという正確な記録が無いらしい)ものの、早くも中原親能と梶原景時が脱落。景時は頼朝という優れた主が居たからこそ名刀だった(景時自身の今はなまくら、という台詞あり)という訳です。

 

(2)それでは。第29回についてです。

第29回は「ままならぬ玉」(7月31日放送)。三浦義澄、安達盛長が病没し、早くも「13人」のうちの4人が退場

頼家の横暴さが目立つ回ではある一方で、苦し紛れに証文を破った北条頼時を理詰めで叱ったり、叔父の全成に対する敬意を失っていないなどの印象の良い描写もみられました。

これらは「ただの暗君ではない。成長に期待できそう。」と思わせる演出であり、この人の未来を知っているだけに遣る瀬無い気持ちになります。

 

(3)さて、本題です。

頼朝の死した翌年(1200年)から翌々年の間に、北条頼時は

泰時

に名を改めます。

ドラマでは、頼時の事を訝しく思っていた頼家から「褒美」という名目で泰時への改名を命じられていますが、私はそれほどおかしな創作ではないと考えています。

 

そもそも何故改名したのか?泰時の「泰」はどこから来たのか?に関しては、その理由・所以が詳らかではありません。

しかしながら、もしも頼時の「頼」が頼朝から一文字を頂戴したのならば、勝手に改名すれば、それは鎌倉殿への反逆です。

とすると、改名は現・鎌倉殿である頼家が命名または承認したとしか考えられないのです。

 

それから、「死した頼朝を憚って」という説も有るらしいのですが、もしもそうならば頼朝から「朝」の字を賜っている人物(平賀朝雅、北条朝時、など)が誰も頼朝の死を機会に改名していないらしい事と矛盾。

結局改名したのは「頼」を頼朝から貰った頼時だけみたいなのです。

 

「頼」と「朝」の違いは何か?それは、現・鎌倉殿(まだこの時点では将軍でない)の頼家と諱の字が被っているかどうかだけです!「頼時」だと頼家と「頼」の字が被り、朝だと被らない訳です。・・・これでは確かにドラマの様に源頼家が北条頼時に「同じ頼の字を使ってもらいたくなかったので変えさせた」と考える方が妥当かもしれません。

 

(4)おわりに

頼時から泰時の改名の事情は詳らかでないところが有ります。

しかしこれで、泰時は「泰」の字を上位者として他人に与える事が出来るようになりました。

そして将来的には、同格だったはずの他の御家人に自分の「泰」の字を与える立場(足利「泰」氏、安達「泰」盛、三浦「泰」村・・など多数!)にのし上がっていくのです。