「平氏の姫」を娶って覇者となった源氏は頼朝だけではない!(大河ドラマ考350鎌倉殿2) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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悪気象・トラブルも有った大学入試共通テストでしたが、ひとまずは本試験の日程が終わりました。

受験生・県警者の皆様、兎にも角にも大変お疲れ様でした!

 

さて、試験が終われば大河ドラマの時間です。

本日もNHK新大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第2回を視聴。サブタイトルは「佐殿の腹」でした。

タイトルの通り、佐(すけ)殿(頼朝)は主人公の小四郎(北条義時)に「そなただけに」と「平家打倒」の志(本心)を告げるというシーンでエンド。

どうやら、頼朝の人心掌握術の様ですね。

 

(1)実際のところは

頼朝は伊豆の有力豪族・伊藤祐親の娘八重と別れさせられ、当時は中級豪族だった北条時政の娘・政子と縁を結ぶ事になります。

悪し様に言えば、頼朝は八重から政子、伊東から北条に後ろ盾を乗り換えた・・・という感じなのは、恐らくはドラマの通りなのでしょう。

ただ、それは頼朝や北条親子ら「男側」の考え。実際には政子の方は頼朝にぞっこんだったとの事です。

 

当時は平家政権(平家は桓武平氏のうちで、清盛の祖父・平正盛のファミリーに限る)の絶頂期。

それに反逆した源家(清和源氏のうちで、頼朝の高祖父・源義家、広義ではその祖父・頼信のファミリー)の跡継ぎに加担する事は分が悪く危険なのですが、時政は娘の頼朝を慕う姿勢を見て頼朝に「賭ける」(平家打倒に賭ける)決意をしたと言う話は、わりと自然ではないかと思います。

 

(2)北条は平氏になっているが、平家への敵対は同族裏切りではないのか?

北条は系図上は桓武平氏で、平家とは平貞盛(将門の従兄弟で、平将門を成敗して平氏の当主の座を射止めた)を共通の祖とします。

貞盛の時点で既に平氏は関東に下向していた(坂東平氏)なのですが、その中で平家の祖先は「畿内に近い」伊勢に所領を得、特に清盛の祖父・正盛は武功も有ってますます朝廷に接近。

土着しなかったために他の武家平氏のように決まった苗字を持たず、「平」をそのまま使用していました。

それゆえに平家というのです。

 

平家は西、坂東平氏は東日本が基盤で、恐らくもうこの頃には同族意識はかなり希薄。

同族裏切りとは思われてはいないでしょう。

最終的には多くの坂東平氏が頼朝方に加担したこともその証左となりましょうか。(平家がひど過ぎた・・・という話かもしれませんが。)

 

(3)(坂東)平氏を味方につけた源氏の棟梁は強い!

頼朝は源氏の棟梁。それが各地の源氏だけではなく(平家以外の多くの)平氏の協力を得て強大になったのは自明。

しかし、源頼朝(源氏の棟梁)ー北条政子(平氏の娘)

と同じパターンが平安中期にもあり、その際にも源家の当主は強力になりまた。

それは、頼朝の5代前の

源頼義(源氏の棟梁)ー平直方の娘 。歴史は繰り返すのです。

もちろん政略結構なのでしょうが、平直方が頼義の武芸に惚れ込んで、我が娘を・・・という逸話が残されています。

この婚儀で頼義は鎌倉の地を得、これが源氏の棟梁が関東武士を従える契機となりました。

 

源頼義の後ろ盾が、坂東平氏の当主と言われた舅の平直方だったという訳ですが、

源頼義の子孫・源頼朝の後ろ盾が、平直方の子孫、舅の北条時政だった・・・と本当に似ていますね!

(さらには

源家の主流・足利尊氏が、平氏の赤橋(北条)登子を娶った・・・というのも源平の縁組。尊氏も一応天下人です。)

 

頼義夫婦の間に生まれた源義家は全国に所領を持ち、源家は絶頂に至ったことはよく知られています。

頼朝も、源氏+平氏のパワーで全国に号令していくのです。