戦国期では大名の地位を守るのは難しかったが、大名までの成り上がりも難しかった(はしだて談義17) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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本日1度目の更新です!(なぜか1度目という気はしません。)


8/6「徳川家康はなぜ「家康」なのか?後編」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10611984096.html 以来のはしだて談義。事実に基づくフィクションです。

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回旋橋http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10628526426.html 付近の茶屋にて。


E「そう聞くと、徳川家の前身の松平家も戦国期を通じて勢力を伸ばしてきた新興領主の典型ですね!」


H「戦国期とはいえ、『国持ち級』の大大名としてはここまでの成り上がりは珍しいですよ。」


E「う~ん確かに戦国末期の大大名の顔ぶれを見ると、結構『名門』が多いですからね~成り上がりで大名になったのは織田家臣を除けば斉藤道三や北条早雲ぐらいですか?」


H「他にも数代掛ければ色々有るのでしょうが・・・それにその両名も一代成り上がりではありません。そう甘くは無いものです。まずは斉藤道三は新史料の発見で道三の父と本人の2代を要している事がほぼ分かっています。」


E「へえ、そうなんですか。」


H「油を売っていたのは道三の父親という事だそうです。そして北条早雲は・・・」


E「幕府役人の伊勢氏出身ですよね。だいたい早雲の姉だか妹だかがあの今川の『正妻』でしょ?一介の素浪人の家柄では到底無理だという事は分かりそうなもの。素浪人説が流布されて居た方が訳が分からないですよ!」


H「何と言いましても、今川家は江戸時代で言えば御三家の格式の家ですからね。そこの正妻となれば、それなりの家からでないと無理でしょうに。」

※室町期における今川家の格式については、「はしだて談義6」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10482531889.html も是非御覧ください。


E「でも、その格式高い今川家は滅んでしまったという訳ですよね!?」


H「その意味では戦国期を通じて国持ち級の勢力を保った家は数えるほどしかありません。」


E「例えば島津とか?」


H「見た目はそうなのですが、それでも傍系が本家に取って代っています。伊作家という鎌倉時代・・・島津3代目から分岐した古い分家の当主が主家を乗っ取ったのです。但し伊作家は本家から養子を取っていましたから、それほど遠戚と言う認識ではなかった様に思われますが。他には細川などもそのグループに入ると考えています。」


E「関東管領の上杉も実質的には取って代わられたケースということで。」


H「そうです。家来筋の守護代・長尾家に養子という形で『上杉』の名跡を譲ったのですよね。そして、上杉輝虎(謙信)が誕生しました。」


E「今川や武田の様に『養子や分家に取って代わられなかった』場合は、最後の最後で滅んでいる・・・と。」


H「血筋は残っていても大名家としてはそうですね。まあ大内氏は養子を取っても滅んでいますが。

そして、今川も武田も家督継承時に大きな争いは幾つか有りましたが本家のうちの話。国レベルを支える家臣たちとしては主君の選択肢が少な過ぎたという事でしょうか。むしろ、伊達家の様なケースは例外に近いかもしれません。」