あけまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
さて、今回は NOSAWA 論外の著書を読みましたので、その感想を。
ちょうど年末年始の時間を使って読みましたが、488ページと読みごたえがありました。
NOSAWAは、正直あまり好きなレスラーではありませんでした。
ただ、色々と目につくレスラーだったと思います。
それも、ネガティブなニュースの方が多かったと思います。
不起訴でしたが、メキシコから乾燥大麻を絵画に隠して成田空港に持ち込んだとして、大麻取締法違反の現行犯で逮捕されたり、仙台市内で泥酔して、無免許でタクシーを乗り逃げし窃盗の容疑で緊急逮捕されたことも。
この本でも、そのことに一部触れられていますが、私が驚いたのは、それ以外のところ。
入門時やメキシコでの苦労、逆輸入で日本でも武藤や鈴木、高山など、大物レスラーとのコネクションを作って、27年もプロレス界を渡り歩いたのは、素直に凄いと思う。
その入り口は、ユニオンプロレス、そこから屋台村、PWC入団へ。
そのきっかけは、たまたま見た高野拳磁へのあこがれから。
高野自身も、新日、全日、SWS、PWCに流れて、1993年頃にナルシストキャラでプチブレイクしてました。
NOSAWAはその影響でレスラーになった一人ということですが、そのPWCから黒田哲広がデビューしたり、高木三四郎や三上等の、DDT原型メンバーもいたことを考えると、PWCがプロレス界に残してくれたものは、意外とあった気がします。
ちなみに、高野拳磁はアメリカ在住、マンハッタンビーチで人命救助をしたことでヴァ―ラー賞を授与されたり、福祉法人を立ち上げて、その理事長にいるとか。
https://twitter.com/KJLAconnection
話はそれましたが、PWC活動休止後、DDT旗揚げに参加したNOSAWA論外は、方向性の違いから退団、そのままメキシコに行くことに。ユニバーサルを退団した邪道・外道と同じような道を歩むわけです。
引退試合の相手の一人に、外道を指名したのも、先人としてのオマージュから。
NOSAWAが引退を決意したのは、ドクターストップがかかったからで、それほどまでに酷使した体の状態も明かされています。
病院で「俺はあとどれくらいできますかね?」と聞いたら「まだやるの?死ぬよ?」って言われてしまった。MRIの検査をしたら、案の定引っかかった。首も痛いが、腰の骨が完全にS字に歪んでいた。
自覚症状はだいぶ前からあったが、それでも大仁田さんとやっている頃は試合が終わってからも緊張感が持続していたから「痛いけど、寝れば治るだろう」って。
首は01年3月の試合でペディグリーを食らって骨折していたようだが、自覚症状がなくて、20年以上も経って判明した。
いわゆるストレートネックになっていて、椎間板の下の方が潰れているし、腰は椎間板が3つくらい潰れていて、寝ていても痛い。
膝は変形したままずっとやってきているからなのか、人間の防衛本能なのか……神経に触れないように変形してしまったみたいで、ポコポコ音を鳴らせる(笑)。関節がかみ合っていないんだろう。
(中略)
実際に引退を決めたのは7月30日の神戸ワールド記念ホールのウルティモ校長の35周年記念興行でEitaと組んでウルティモ校長&エル・イホ・デル・サントと闘って、サントのカバージョに負け、その後もサントのカバージョで連敗を喫した時だ。
サントはメキシコ・マット界でも特別な存在。父親のエル・サントは聖人と呼ばれた英雄で、その血筋からか、明らかにほかのルチャドールとは違う。
どうしても久しぶりにサントに触りたくて、その神戸ワールドでのウルティモ校長とサントの試合にEitaと乱入して試合をぶち壊し、ウルティモ校長&サントvsNOSAWA論外&Eitaのタッグマッチに持ち込んで抗争に突入したが、それが結果的に俺に致命傷を負わせた。
ルチャ・リブレの名門サント家の伝家の宝刀カバージョは”本物”だ。最初に食らった時に腰がバリバリバリ!って音がして、これで俺の腰は完全にダメになった。
本当に耐えられない痛みが走り、引退を決めたんだ。
引退の裏にこんなことがあったとは、知りませんでした。
武藤の引退試合に便乗するところは、調子いいなという印象しかなかったけれど、それが許されるところに、NOSAWAの信頼と人柄が表れていると思いました。
彼が残した以下の言葉は、海外で生き抜いた彼なりの金言だと思います。
俺が27年間もこのプロレス業界で生き抜いてこられたのは調子がいいからだ(笑)。
調子がいいのと、段取りが天才的にうまかったから生きてこられたんじゃないかと思う。天下をとれなかった豊臣秀吉タイプなんだ、俺は(笑)。
(中略)
最初、TNAに3週間くらい呼ばれたのに、その後は半年間くらい呼ばれなくなった。「ダメだったのかな」って思っていたら、エージェントが変わっていた。
ここがまた難しいところで、言葉の壁にもぶち当たったりした。
俺たちがいくら評価されないと、言葉が通じないと、エージェントによっては呼んでもらえなかったりする。逆に評価されなくても、エージェントと仲が良かったり、言うことを聞く奴は使われる。
「あいつ、あんなにしょっぱいのに、なんでこんなにいい場面で使われるんだ?」っていうやつもいるけど、その理由が現場で分かった。
いろいろな人に聞いたりすると「あいつはエージェントの弟の息子なんだ」とか、見えないところでファミリーだったりする。俺なんかは現地採用だけど、縁故採用の奴らもいる。
「プロレスも政治なんだな」っていうのを海外で学んだ。
だから俺もトップの選手の控室にいた。そうすると、「ああ、こいつもこのグループの一員なんだ」って思われる。でも言葉が分からないから、堂々とするしかなかった(笑)。
とにかくニコニコして、「オッケー!オッケー!」って言って(笑)。
メキシコで培った人脈は彼の財産だし、日墨を繋ぐ架け橋として、「文化人」として、これからも日本プロレス界に貢献してほしい。