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あーすはーとのブログ

現在、過去の出来事や体験談、役に立ちそうな情報なんかを日々発信していきます。よかったらいつでも気楽に立ち寄っていってください^^

先週の土曜日、4月11日、東京のムーンライトスタジオにおいて心の平和につながる瞑想会が開催されました。

この瞑想会はそもそも、カルマをつかさどるシャーに天の切なる願いにより実現したものであり、その意図は人々の心より怒りを取り除き、平和を世界にもたらすというものです。

このように聞くとどこにでもありそうな、平和を願う人々の集まりのように聞こえることでしょう。

人々が平和を求めるのは今日に始まったことではなく、それは人がこの世に存在したその日から続いている、いわば不変の願いというべきものだと思います。

つまり人とは、平和と共に存在することが困難な生き物であることの裏返しなのでしょうか。

人がいるからこそ戦争や悲劇は繰り返され、愛する者が目の前で無情にも意味のない死を強制され続けるのでしょうか。

人がいなければこの世界は平和を取り戻すことができるのでしょうか。

怒りは新たな怒りを生み、その連鎖はほぼ永遠に切れることなく、私たち人間がいる以上続いていくのではないでしょうか。

この連鎖を切ることは可能なのでしょうか。

いや、そもそも私たちは、私たちの心の中にある怒りというものを真に意識し、理解できているのでしょうか。

人はとても賢く知恵のある生き物であり、巧妙に自分の怒りを私たちの気が付かない意識の奥深くに隠してしまうものです。

その怒りが知らず知らずのうちに大きくなり、私たちは私たちの願いとは裏腹にその怒りをあらゆる形でこの世に創造しています。

それはあたかもほかの世界で起きていることのように見えますが、その怒りの根源はへいわを願う私たち一人一人の心の中にもあるのです。

言い換えれば、その怒りの連鎖を切るカギは私たち一人一人の心の中にあるということです。

カルマをつかさどる神シャー二は、その真実を伝えるべくこの瞑想会を開催することを強く願っています。

今回新たに何名かの方が瞑想会に参加されております。

誰にでも門は開いているとはいえ、人は常にあるべき時に、あるべきところに存在するもの。

故に人はまだ真の意味で神々と共に平和を望む段階まで来ていないのでしょうか。

このブログを読まれ、まだ一歩を踏み出せないでいる読者のみなさん、皆さんの平和は、いったいいつになったら訪れるのでしょう。

皆さんの平和へのかぎはもう見つけたでしょうか。

じかいの心の平和につながる瞑想会jは、5月9日(土)、14時より開催されます。

オンラインでの参加も可能ですので、自宅にいてもこの瞑想会に参加することはできるようになっております。

ぜひ皆さんの心の平和のかぎをつかんでください。

詳細はこちらまで
心の平和につながる瞑想会


今自分はシャーに天の花びらのマントラを日々唱えています

いろんなことに対し無関心になっていく、そんなテーマがここ最近強く自分に表れていますが、その中で感じることは色々あり、うまく説明できないものばかり



普通人はカルマを抱え、この世に転生してくるといいます

カルマ、または輪廻転生

それは一つの人生を超え、廻って戻ってくるその人の人生のテーマ

カルマにはどちらかというと厳しい教訓のようなイメージが強い気がします

払わなければいけない借りのようなもの

人が人であるということは

基本的に自我を持つということ

自我とは自分という個人の意識

自我それ自体には良いも悪いもなく

自我本来の意義がある

が、人はなぜかその自我から解放されたいと思ってしまう

なぜこの世に生まれながら、あえて自ら、自我から解放されたいと願うのだろうか

そもそも自我とは何か理解しているのだろうか

が、それも人の欲望のひとつ

つまりはカルマであり、その人が転生してきたまさに理由でもある

矛盾しているが、ひとは自我から解放されたいと思い自我を経験する

自我の本当の意味を理解できるその日まで

この世で生きるということは何かを欲すること

この世の中に何も欲しない人などいるのでしょうか

何かに対し感情を感じるとき、そこには必ずその人の欲望があると思います。喜怒哀楽。その感じ方はその人それぞれですが、それこそがその人の欲望の表れであり、カルマであると思います。

人が何かの形で成長すれば、同じことを経験しても、感じ方は変わってきます。つまり、感情とは、その人のその時のカルマがどのような状態なのかを示す道しるべのようなものといえるのではないでしょうか。

カルマとはただ永遠に廻る輪ではなく、その輪自体が、実は私たちなのではないかと思うのです。

つまり私たちは本来欲望の塊であり

それがこの世に具現化されたもの

カルマという名のもとに

廻るのは輪ではなく、私たち自身

私たちは欲望であり、カルマでもある

そしてカルマとは愛である

いや、愛がカルマであるというべきか



4月のシャーニー天による世界平和の瞑想会は11日の土曜日です。
ぜひこの機会に、自分、つまり、カルマと向かい合ってみてはどうでしょうか。
新しい発見がきっと待っていると思います















今週立て続けに二人の方が自分のいる老人ホームでなくなりました。

一人の方は身寄りのないまだ70代の男の方で、男性でありながらとても明るく、いつも職員にありがとうと嬉しそうに話していました。

その方はYさんというんですが、今日自分が出勤したころに亡くなったと思います。

今朝6時に出勤するや否や夜勤の職員に呼ばれ大急ぎでYさんの居室に行きました。そこにはまだなくなって間もないYさんがよこになっていたんです。

夜勤の職員はショックが隠せない様子で、たったさっきYさんをお越しがてら顔を拭いたばっかりなのに、と動揺していました。

ただ自分はなぜかとても冷静で、管理者に連絡するようにその職員に伝え、Yさんと二人きりになりました。

人がなくなると、今までの知っているその人の顔とは全く別の顔になります。当たり前のことですが、これは何回経験しても慣れません。

人とはこれ程までにも一瞬で変わってしまうものかと毎回思います。まさに抜け殻というのでしょうか、そこには何も感じられません。

自分の癖で、亡くなった方のおでこをそっとなでる癖があるのですが、Yさんはまだ温かく、静かに目を閉じているようでした。

その時自分は悲しみや無念の感情はなく、ただ思いました、
今までご苦労様、行ってらっしゃい、と

人の死を数多く経験し、それが人生のサイクルの一つであることが自然と身についてきています。死をこれほど自然に、しかも当たり前のように受け入れられたのは今回が初めてのことでした。

本当に死を悲しむのは残された人々であって、死にゆくく本人ではないように思えます。もちろんやり残したことを無念に死にゆく人もあると思いますが、それはとても悲しい死に方ではないでしょうか。

死とは人のあるべき姿であり、私たちの一部です。本当に恐れるべきは死ではなく、感謝や愛のない生なのではないでしょうか。

老人ホームを最後の生活の場とする方は大勢います。

毎日、すべての方に感謝し、穏やかに暮らす方もいれば、おば捨て山に捨てられたと嘆き、早く死にたいと訴える方もいます。

ただ、死はすべての人に必ず訪れるものであり、それを知っていても敢えて今の命を嘆くのは賢明な判断なのでしょうか。

勿論それらすべても人生の学びであり、カルマでしょう。またそれを日々目の当たりにしているのも自分のカルマであると感じます。

VEDYAさんの声が聞こえてきます。自分の感情と他人の感情を区別しなさいと。

Yさんの声がまだ頭の中でこだましています。

おっ、いつもありがとーな!!