今週立て続けに二人の方が自分のいる老人ホームでなくなりました。
一人の方は身寄りのないまだ70代の男の方で、男性でありながらとても明るく、いつも職員にありがとうと嬉しそうに話していました。
その方はYさんというんですが、今日自分が出勤したころに亡くなったと思います。
今朝6時に出勤するや否や夜勤の職員に呼ばれ大急ぎでYさんの居室に行きました。そこにはまだなくなって間もないYさんがよこになっていたんです。
夜勤の職員はショックが隠せない様子で、たったさっきYさんをお越しがてら顔を拭いたばっかりなのに、と動揺していました。
ただ自分はなぜかとても冷静で、管理者に連絡するようにその職員に伝え、Yさんと二人きりになりました。
人がなくなると、今までの知っているその人の顔とは全く別の顔になります。当たり前のことですが、これは何回経験しても慣れません。
人とはこれ程までにも一瞬で変わってしまうものかと毎回思います。まさに抜け殻というのでしょうか、そこには何も感じられません。
自分の癖で、亡くなった方のおでこをそっとなでる癖があるのですが、Yさんはまだ温かく、静かに目を閉じているようでした。
その時自分は悲しみや無念の感情はなく、ただ思いました、
今までご苦労様、行ってらっしゃい、と
人の死を数多く経験し、それが人生のサイクルの一つであることが自然と身についてきています。死をこれほど自然に、しかも当たり前のように受け入れられたのは今回が初めてのことでした。
本当に死を悲しむのは残された人々であって、死にゆくく本人ではないように思えます。もちろんやり残したことを無念に死にゆく人もあると思いますが、それはとても悲しい死に方ではないでしょうか。
死とは人のあるべき姿であり、私たちの一部です。本当に恐れるべきは死ではなく、感謝や愛のない生なのではないでしょうか。
老人ホームを最後の生活の場とする方は大勢います。
毎日、すべての方に感謝し、穏やかに暮らす方もいれば、おば捨て山に捨てられたと嘆き、早く死にたいと訴える方もいます。
ただ、死はすべての人に必ず訪れるものであり、それを知っていても敢えて今の命を嘆くのは賢明な判断なのでしょうか。
勿論それらすべても人生の学びであり、カルマでしょう。またそれを日々目の当たりにしているのも自分のカルマであると感じます。
VEDYAさんの声が聞こえてきます。自分の感情と他人の感情を区別しなさいと。
Yさんの声がまだ頭の中でこだましています。
おっ、いつもありがとーな!!