
今なおさまよえる泰文社の本
渋谷の東急ハンズへ寄って、トランクルームへの収納用段ボール箱のサイズ・種類を確認する。そして、渋谷に出れば、例の古本屋をスルーするわけにはいかない。(^^;
その店の洋書コーナーを見ると、新顔のペーパーバックがずらりと並んでいた。新顔といっても、古本だから、どれも年季のいったくすみ具合である。なにか、やたらと白く細長い紙片が挟み込まれたものが多く、ちらと中身を見てびっくりしたのは、「古書誠実売買 東京泰文社」のシール付きのものが多かったことだ。
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もうご存じない方も多いかもしれないが、泰文社は神保町にあった洋書専門の古本屋で、もっぱらペーパーバックを数多く扱っていたと記憶している。室内が暗くタイトルが見にくかろうと店主が案じていたのか、棚挿しにされた本の表紙には白い紙を腰巻きのように巻いて、その上に原題の "日本語訳" が書き込まれているものが目についた。石川喬司の『夢探偵 SF&ミステリー百科』にはこんな一節がある。

こんな笑い話がある。神田神保町の古本屋にイァン・フレミングの『医者はいらない』という原書が置いてあった。ハテ、あの007シリーズの作者が健康法の本でも書いたのかな、と手に取ってみると、これがなんと原題は『ドクター・ノオ』。つまり、悪党の名前を古本屋の主人が勘ちがいしてカバーに自己流の訳をつけて並べておいたのである。
そう。泰文社はそんな感じの店だったのだ。いっぽう、棚の前のスペースには、そうした腰巻きもない(タイトルは十分近くで見られるからか)ペーパーバックが乱雑に積み上げられており、SFファンは(そしてミステリーファンも?)こぞって、ひと山ずつ念入りにタイトルを確認していったものだった。
メガネをかけやせたご主人は無口で知られ、ずいぶん偏屈なイメージがあった。大学時代のクラブの後輩が後に語ったところによると、「口をきいてもらえるようになるまでに相当本をひっくり返しましたよ」とのこと。残念ながら、当時の私には、バッチい古本にはあまり手を触れたくないという変な潔癖性があったため、この店のお宝発掘にはほとんど参加していなかったが、今にして思えば、フレッド・ホイルの『天文学の最前線』のペーパーバック版が無造作に置かれていたことばかり鮮明に思い出されてならない。今でこそ、ウェブ上で原書は読めるし、不完全なOCR処理をしたらしい電子書籍版もあるわけだが、あれだけは、現物を入手しておきたかったなあと悔やまれてならないのだ。(^^;
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ま、そんな泰文社のシールが貼られた本が、今になってやたらと湧き出てくるのはいかにも不可解でならない。泰文社でペーパーバックを買うことを無上の楽しみとしていた御仁がコレクションを手放したとでもいうのだろうか?(それにしてはジャンルがバラバラ!) それとも、泰文社が閉店した際に引き取られた在庫がめぐりめぐってこの店にたどり着いたということなのだろうか?
あの店員氏に尋ねてみると、やはり、個人が手放したコレクションではなく、業者間の市に出ていたものをかたまりで引き取ったのだという。まだまだ別の結束分も控えているらしい。ちなみに、白い紙片は、書き込みありの本に挟み込んでいるという。泰文社の本が未だ成仏できていないような気がして、私は、1963年に Penguin Crime から刊行された、エラリー・クイーンの Inspector Queen's Own Case (『クイーン警部自身の事件』)を1冊購入した(200円)。
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大学を卒業し、何年も経ってから私は泰文社を訪れ、比較的状態のいいペーパーバックを買い取ってもらったことがある。金額は忘れてしまったけれど、店主が「あまり高く買えないんだよねぇ」とちょっと申し訳なさそうにぼそっとつぶやいたことだけなぜかはっきりと覚えている。泰文社が閉店したのはそれから何年か経ってからのことだったと思う。