カトリーヌ・ド・メディシス(カトリーヌ・ド・メディチ)と言うと、カトリックとプロテスタントの強硬の真っただ中、彼女の政治の大半はプロテスタントの勢力を抑える為に割かれたと言っても過言ではありません。
彼女の意に反して起こってしまった「サン・バルテミーの大虐殺」の首謀者として、後世の人々からは良いイメージを持たれていませんが、果たして彼女は血も涙もない単なる「悪女」と言う面しか持っていなかったのでしょうか?
今回は3回に渡って、教科書では絶対に教えて貰えない、カトリーヌの波瀾万丈の人生を覗いてみましょう。
カトリーヌと言えば絶世の美女であり、夫アンリ2世の愛人ディアーヌ・ド・ポワティエとの女の対決です
ここで、カトリーヌの別の顔。女性としての寛容さが現れるのですが、その前にカトリーヌの生い立ちについて少し触れておきましょう。
カトリーヌは大富豪ロレンツォ・メディシスの唯一残された孫としてフェイレンツェで生を受けます。
・・・・と言うと、何とも華麗なお姫様と思われるかもしれませんね。
でも、カトリーヌの母はカトリーヌを生んで直ぐに亡くなり、残された父親も生後150日に亡くなってしまい、カトリーヌは生まれて直ぐに孤児になってしまったの
事実上の支配者とは言えメディチ家は丸薬屋から成り上がった成り上がり者。
一族の中でも権力争いは激しく、加えてメディチ家は民衆からの憎悪が集中していたので、カトリーヌ擁護派の親戚はロレンツォの血筋を守る為にカトリーヌを修道院に預けたんです。
日本人の私達からすると、幼い頃の物語やアニメなので影響で修道院と言うと規律が厳しくて、質素で、身寄りのない子供達の集まりと言う、何となく寂しいイメージがあるでしょう?
でも、昔、修道院と言うのは学識者の集まり。
社交の場でもあったんです。
ほら、昔は識字率がとぉ~っても低かったじゃない?
そんな時代に、読み書きが出来て、薬草学やら天体観測を始めとする自然科学や数学、勿論宗教学や哲学と言った学問の場が修道院だったのね
そんな場所だったから王侯貴族達も集まるし、来世の幸福の為、大っぴらには言えないけれど現世での権力の為に袖の下を渡した貴族達もいた訳だから、修道院には当時の一流の芸術品や土地が寄進され、社交の場となっていた訳。
勿論、王宮の社交場とは、ちょっと雰囲気も違いますけどね。
だから、カトリーヌは修道院で必要な教育や上流社会のマナーを身に着けていったのね
さて、13歳になったカトリーヌにフランスから縁談が持ち込まれます。
公国を持たない公女であるカトリーヌは、イタリアにいても人質同然の身でアンリ2世と結婚すれば自分の人生が開けると一筋の希望を持って・・・・いわゆる背水の陣の気持でフランスにお嫁に行くんです。
ところが・・・・
結婚式の当日待っていたのは、自分は夫から愛されない名目だけの王妃と言う運命
夫となるアンリ2世に会い、一目で恋に落ちたカトリーヌでしたが夫アンリは余りにも素っ気なかったんです。
そして、披露宴の場。
会場の一番隅の目立たない場所にいた、白と黒の喪服を着た女・・・・一見地味で目立たない服装ですが、何とも美しいその女性に夫の視線は向けられていたんです
因みに、白と黒の市松模様ってありますよね?
フランスを始めとするヨーロッパでは床等に使われていますが、この市松模様はディアーヌが未亡人で喪を表す白と黒の色を身に着けていた事に由来しているそうですよ。
さて、
その女性が夫の愛する女性である事を悟ったカトリーヌ。
ここから、彼女は苦渋に満ちた結婚生活が始まるんです。
・・・・・to be continued