今年の夏、インターネットで検索をしていた時、「マキシム」が閉店するニュースを目にしました。
マキシムと言えば、アール・ヌーヴォーの室内と、バターやクリームを使った、クラシックな古き良きフランス料理で有名なレストラン。
健康志向でオリーブオイルとハーブが主体となった現代のお料理に比べると「少し重いのよね」と感想が多く、現代の嗜好とは異なりますが、それでも、1品、1品の完成度は高かったと思います。
ただ、コースで頂くとなるともう少しメリハリが欲しい所。
螺旋階段を下りて行くと、カサブランカの香が漂い、古き良き19世紀のフランスを思わせる雰囲気の店内は、きちんと装って非日常を楽しめる、素敵な空間だったと思うと残念です。
グラン・メゾンと呼ばれるレストランで食事をすると言う事は、単に料理を食べる事では無く、インテリア等の調度品や雰囲気を楽しみ、一流のサーヴィスを受けると言う事です。
つまり、これらを鑑賞するだけの目を持って、初めて享受できる場。
単にお金があるだけでは楽しむ事は出来ません。
若い時に場違いな居心地の悪さを感じても、時間をかけて、教養を磨き、人生の苦楽を経験した大人が、とっておきのひと時を楽しむ場。
グラン・メゾンとは大人の為の社交場であると捉えています。
昔賑わった、恵比寿にあったシャトーレストラン「タイユヴァン・ロブション」の内装はネオ・クラシックと呼ばれるルイ16世様式。
ウェイティングルームに通され、会食者全員が揃った頃サロンに案内され正餐を頂く。
デザートが終わった後は、食べきれない程のプティ・フールと共にお茶を頂き、内装や楽しかった食事の余韻を楽しむ演出は、今もお城を持つ貴族の正餐のスタイル。
たっぷりとプティ・フールを出すのは、夢の世界を壊してはいけないからです。
この様に、シャトーと言う外観や内装やカトラリー等の芸術様式が一致し、相応しいサーヴィスが一体化する事で、シャトーレストランとして成り立っている訳です。
知人から聞いた話では、「モナコにあるオテル・ド・パリ内にある「ルイⅩⅤ」は勿論ルイ15世様式であり、当時流行ったベルメイユ(銀器の上に純金のメッキを施された食器)を使用し、ハーブティーも目の前でラベンダーを摘み取ってくれる演出です。
つまり、貴族達が生活の隅々まで、こだわって贅を尽くしていた生活を、対価を支払ってお客さんが享受すると言う場なんです。
日常的に使うカジュアルなレストランやビストロの中にも、味・サーヴィス共に良いお店は沢山あります。
しかし、日本には、グラン・メゾンの様に「敷居が高い」と思われる物に対して、何か罪悪感の様なものがあるのは何故でしょう。
グラン・メゾンとは、高級食材提供するお店ではありません。
高級食材を安価な価格で提供するチェーン店系のお店には無い、サーヴィスを含む質の高さと、対価に換算出来ない精神的な歓びがあります。
そこを利用する人の中には、接待目的で使う人もいれば、物質だけは持っている、いわゆる「ブランド」だけでしか価値を計れない人もいるでしょう。
しかし、食べる事が本当に好きで「この味に会いたい」として来るお客さん。
美術や音楽、建築などが好きで、知的好奇心の旺盛な大人が、お店の意図を理解し、ゆっくりと満ち足りた気分の中で食事を楽しみたいとする、紳士的な人も大勢います。
そして、分かる人だけが、シェフ達の職人魂の声に耳を傾け、シェフの仕事に敬意を表する。
お皿を通して、作り手と受け手との対話が行われる。
それがグラン・メゾンの醍醐味だと思います。
日本経済が中々回復を見せない、失われた20年間と言われる間に、この様な素晴らしいお店が、次々と姿を消しました。
価格重視、グルメブーム、そして知的好奇心を持たず、ゲームと漫画だけと言った人々が増えれば、今後も、価値のある、素晴らしいお店は無くなって行く事でしょう。
普通の人達が、記念日など人生のとっておきの日やご褒美の為。
「あの店に堂々と行ける人になるぞ」とか「いつか、あの店で彼女にプロポーズをするぞ」と何がしかの目標となる様に、銘店とは人を育てる役割も果たしていると思います。
そして、そのお店でプロポーズをした人が、今度は記念日に家族を連れて来る。
食とは、お腹を満たすだけではなく、身体に栄養を与える為だけでもない。
人生を豊かに、幸福感を与えてくれるのもまた「食」であり、レストランでもあると思います。
お店の格を上げるのがお客さんであれば、そのお店の持つ風格に相応しい様、人を育てるのはお店です。
この相互関係がなければ、良いお店は成り立たず、その様なお店を守って行く事が、成熟した大人の役割だと思います。
「いつか、ここへ」と目標となる名店が消えてしまう事は、文化がまた1つ消えるに等しく、非常に残念に思えてならないのです。